古本屋通信

戦時の本

古本屋通信    No25  8月31日

 戦時の本


 古本屋をやって一番よかったことは何かときかれたら、私は躊躇なく答える、戦前の本とりわけ十五年戦争期の本を大量に読むことができたことだ、と。

 十五年戦争期 (1930~1945年) の日本がどういう状態にあったのか、そのとき日本人民がどういう生活を強いられていたのか、絶対主義天皇制下の思想文化がどのようなものであったか、私はこれらについて戦後いろいろな機会に聞いてきたし、また本も読んできた。しかしそれらは伝聞であったり2次資料だった。戦前のものでも戦後に復刻されたものは読んできたが、それらは当時の体制からは異端とされたものだった。当時の体制側の論稿を直接よむ機会はなかった。それは図書館でも閲覧できず、戦後社会から消えた書物だった。それは日本の狂気の産物であったから、消えていくにふさわしいものではあったが。

 古本屋を始めて以来、私はずっと十五年戦争期の本を集め続けた。いや特に努力して集めなくても、いくらでも古本屋に転がりこんできた。たいていの古本屋が入手と同時に捨てたけれど、私は捨てないで残した。自分で読み、読んだあとで一部の客人に売った。よく売れた。

 この期の本の内容を一言で説明することは難しいが、大雑把に言うと社会、思想、哲学、歴史、文学、教育の全領域にわたる非合理主義、反科学主義、超国家主義の色彩の濃厚な本であった。それは学問研究のかたちをとってはいても、神国日本と不可侵の天皇を不動の前提にしていたから、真理探究の名に値しなかった。学徒兵が決死の覚悟で戦地におもむくための「哲学」の本もあった。
 しかし大部分はこういう硬い本ではなく、大衆雑誌、通俗読み物、週報、写真集などである。これらは当時の支配階級の人民支配の主要な道具として、当時の人民の日常生活を直撃した。まさに最もわかりやすいイデオロギー攻撃だ。いけいけドンドン進めの戦争賛美。毎週配布される「週報」にはウソの日本軍勝利の報。侵略先で「日本のこころ優しい兵隊さん」が「支那のみなさん」にどんなに歓迎されたか、沿道にならぶ歓迎の旗、旗、旗。すこし丁寧に見ればでっち上げであることはわかるのだが。

 ここまで書いて、いま再度かまびすしい従軍慰安婦問題を思い出した。日本の右翼がえらい剣幕らしい。これって戦時の治安維持法下で宮本顕治が人殺しをしたという論法と基本的に同じではないか。こじつけ。いったい日本が1910年に韓国併合したのは侵略だったのか侵略ではなかったのか。この一点を曖昧にして論は一歩も前に進まない。だが、かれらはまさにこの一点を否定するために全力を振りしぼってあがく(足掻く)。
 中国大陸における南京大虐殺、朝鮮半島における従軍慰安婦。日本帝国主義の海外侵略のさい、一部の買弁資本家が日本の「進出」を歓迎したからといって、侵略ではないとはいえない。買弁資本家に動員された民衆が沿道で歓迎の旗を振ったからといって、侵略ではないとはいえない。
 従軍慰安婦を集めるのに強制の事実があったか否かは、本質の問題をはずれている。というより意識的にはずしている。個々のケースでは強制もあただろうし、任意もあっただろう。そんなことは「内地」の「女郎」集めと大差あろうはずがない。「強制」の証拠?状況証拠は腐るほどある。証言が。貧しさゆえに、あるいは貧しくなくても売春に応じた女が日本統治下の朝鮮半島にいたという事実。この事実はだれも否定できまい。まさに従軍慰安婦は歴史的事実として存在した。このことをを否定する日本の右翼と保守の本当の狙いは、この問題をえさにして日本のかつての侵略を合理化し、こんにち軍国主義の日本を復活することである。

 侵略は被侵略国の財産・文化・習慣あらゆる価値あるものを奪う。奪うことによって本来あるかたちを破壊する。男女間の性愛の自由、人間の尊厳を破壊する。それは被侵略国のそれを壊すだけでなく、自国の男女の性愛のあるべきかたちを歪 ( いびつ ) にする。

 いま朝鮮半島からあれこれ言われているという事実。これが従軍慰安婦問題のすべてだ。坐して跪いたくらいでは屁にもならない。このさい「天皇制を廃止します」くらい言うのが筋だと思う。相手に「天皇の謝罪」を求められて、このていらくは話にならない。「戦前の絶対主義天皇制と今日の象徴天皇制は違う。今日の天皇に謝罪を求めるのは筋が違う」などという論理が通用すると思っているのか。戦後革命を流産させ、戦後天皇制を廃止できなかった「恥の告白が」まさかこのような時、このような言葉で、日本共産党委員長の口からでるとは夢にも思わなかった。

 ここで、いま起こっている議論の文脈からは少しズレるけれど、以前から思っていたことがあるので、ここに書き加えておきたい。戦時下の性にかかわる問題をむやみにとりあげないほうがよい。二十年以上まえ千田夏光がこの問題で本を書いたとき、私は感心しなかった。従軍慰安婦?今更なにをというのが率直な気持だった。もっとはっきり言うと、千田さん、せこい売文商売しなさんなよ、これ以上やっても泥沼に入るだけだ、そうおもった。そのときの気持はいまも変わらない。私は日本の左派は、従軍慰安婦問題はスルーしたほうが賢明だと思っているのだ。歴史の基本認識なく従軍慰安婦問題を語るなかれということだ。日朝問題について、ひとつだけ参考文献をあげておく。「日本の韓国併合」 (山辺健太郎 太平出版社 1970年)

もとに戻ろうと思ったものの、前段をすっかり忘れたしまった。またの機会にゆずる。
  
  1. 2012/08/31(金) 05:44:33|
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ブントは左翼か

古本屋通信  No 24  8月24日

 ブントは左翼か

 ここでいうブントは60年安保以後の第2次ブントとする。樺美智子さんも属していた第1次ブントは含めない。ブントは左翼ではない。ならば何者か?与太者であり、ゴロツキであり、チンピラである。第1次ブントは検討の範囲外なので触れないがすこしはマシなのもいた。しかし、マシなのは全員ブントをやめて革共同に移った。残ったのはカスばかりだった。それ以来意味のない喧嘩を続けてきた。ブントについて書くのに資料はいらない。ウロ憶えで書けばよい。(書きはじめて、厭になり中断、いずれ気が向いたら続きを書く。何時になるやら)。

 三日後に
 前記は誤りではないが、なんでこんな書き出しの記事を書かなくちゃあならんのか。ま、気を取り直して書こう。ブントまたはブンドは共産主義者同盟のことだが、学生組織の社学同 (社会主義学生同盟) とほぼ同一の意味で使われる。要するにどっちでもよいのだ。学生以外ほとんどいなかったから、上部組織も学生組織もない。その点では第1次も第2次も変わらない。

 三派連合
北小路敏や清水丈夫ら主要メンバーが抜けた後のブント残党では、全学連指導部としてもちこたえられようはずがなく、瞬く間に革共同 (マル学同) に乗っ取られる。1961年ブントは内部に多くの分派を抱えつつ、社青同 (解放派が未分化)、構改派 (共産党の分派) と三派連合を組む。ほとんど大義名分のない野合だが、それでも唯一、東大教養部では江田五月を自治会委員長に当選させる。この辺のことは手前勝手な書き方だが江田自身が「出発のためのメモランダム」で書いている。江田に一貫しているのは都合が悪いことには触れないか、それでなければ事実を歪曲することだ。それでも自分がブントと統社同(フロント)のバランスに乗った委員長だったことは認めている。だが、東大社青同が江田三郎派だったような書き方をしている。江田本人と横路をのぞいて社青同構造改革派の学生などいなかった。東京外大から移ったてきた滝口弘人をはじめ全員がのちの解放派のメンバーなのだ。まあそれはよい。
 学生運動で三派連合と言えば三派全学連のように言われるが、それに先行すること五年、とうじ解体寸前のブントが社青同、構改と組んだのが三派連合の先駆けだったことは憶えておいてよい。

 三派全学連
 つるや連合やら何やらは省略する。ときは三派全学連結成のまえ1966年。すっかりメンバーも入れかわっていたけれど、学生運動史上はじめてのゲバ棒つかっての出入りがブント内であった。中央、明治の関東勢と関西勢のあいだで武器使用の殴り合い。しかし何とか折れ合いつけて一本化し、全学連再建に備える。努力のかいあって中核派や解放派よりも優位にたち、三派全学連の委員長の座は獲った。しかし後が悪かった。直後の明大闘争で委員長の斎藤克彦は大学側理事と裏取引。これで責任問われて委員長の首がチョン。しかしこれって、ホントにブントらしかった。60年安保闘争で右翼の田中清玄から金を貰ったときの二番煎じ。本人はちっとも悪いと思ってないのだ。左翼というのは運動なのだ。責任や倫理のない左翼運動はあり得ない。しかし、ブントのアタマではそれが理解できない。故にブントは左翼ではない。

 「反帝」全学連
 斎藤の辞任で三派全学連は委員長交替となり中核派の秋山勝行に。しかしすぐに三派の対立から解体。ブントは「反帝」全学連をつくった。委員長には同志社の藤本敏夫。かれのその後の経歴をウィキで見られたい。私はこういう人間に心底、怒りをおぼえる。怒りの持っていき場所がないから、心から軽蔑する。変わり身のはやさは今時のカス政治家の三十年先を行く。そして十数年後に選挙でテレビに。私はたまたま観たが老醜以外になにもない。左翼と対極の空虚な自己顕示だけ。つれあいの歌手加藤某の意向で死後に遺稿集まで出版する。あまっちょろい自己賛美と陶酔、恥の集成。藤本に比べてれば秋山勝行は左翼としてまともだったと思う。いまでは秋山の名はどこにもない。一冊の著書だけが残っている。

 ブント赤軍派
 ブント赤軍派の初舞台は1969年秋の全国全共闘大会だ。一体こいつらは何をしに会場に行ったのか。ふつうは大会に賛成する者が行くのだが。ブント戦旗派に殴り込みを掛けるかたちで登場した。京大と同志社が多かったが大学単位の全共闘は崩れていた。ゴロツキ集団の登場は終末期全共闘に相応しい舞台ともいえた。
 赤軍派と連合赤軍と日本赤軍。三者の関連と区別について正確に言える者は殆んどいないだろう。ブルジョアマスコミが破格の扱いをしてくれたにもかかわらず。私にも分らない。分らなくて当然。このこともブントがとうてい、単一の政治集団であり得ない理由のひとつだ。なぜなら、政治責任の取りようがないから。

 日本赤軍
 日本赤軍とは? 国際根拠地? 世界革命? 重信房子? これってファンタジーの世界か? 花形スターたちに惜しみない拍手がおくられた。

 連合赤軍
 連合赤軍が大量殺人をやった。連赤のメンバー以外の赤軍派に責任はあるのか、ないのか。ブント全体はどうか。あれこれの発言は全部そとからの批判だった。塩見孝也など政治党派を率いる資格のカケラもなかった。これは赤軍派の、そしてブントの殺しなのだ。

 マル青同
 その後の1975年、岡山大学にマルクス主義青年同盟を名乗る集団が現れ、蛮行の限りを尽くした末、寮生ひとりを殺して山中に埋めた。この集団のひとりは数カ月前まで、京大ブント・赤軍派のメンバーだった。マル青同はブントのなれの果てなのだ。そのマル青同、名前をかえて今じゃ堂々の保守反動として、主に民主党議員をおうえんしている。。阿呆らしくてやっとれん。殺された大沢君は何だったのかと思う。つくずく同情を禁じえない。

 奥平剛士 
 ブントについては左翼失格の所業がまだまだある。しかし虚しいかぎりだ。ただひとつ、奥平剛士について。奥平は岡山朝日高校から京大工学部に入り、日本赤軍でテリアビブで死んだ。私はいかなる意味でもかれの死に特別の意味は認めないが、朝日高校がかれの名を同窓会名簿から抹殺したことはゆるせない。いずれ書きたいと想っている。

 

   


 
 


 



 
  1. 2012/08/24(金) 17:30:57|
  2. 未分類

革マル派の強さ

古本屋通信  No 23  8月23日 
 
 革マル派の強さ

 幸か不幸か、私は実物の革マル派同盟員を知らない親 (おや) 組織の革共同はもちろんのこと、マル学同の同盟員も知らない。1960年代、私のいた大学には革マル派は一人もいなかった。しかし、私は新左翼 (他に適当な用語がないので止むを得ず使う) の中では一番気に入っている。私は革マル「趣味者」といってもよい。以下、その理由を書く。
1 革マル派はよく第二民青と言われ、他のトロツキストから嫌われた。やることが汚いと言われた。中核や青解は別にして、ブントや、四トロや、プロ学・プロ青がなぜ嫌うのか、私にはわからない。たぶん民青も革マルもかれらをばかにしていたからじゃあないかな。
2 運動より自派の利益を優先、典型的には東大闘争の山場で、機動隊との衝突を避けて逃げた。逃げてなぜ悪い? これって当たり前だろう。テレビに映してもらわんと左翼じゃないのか?
3 かなり多く大学で民青と共存した(共栄はしなかった)。早稲田でも、東大・文でも、名古屋でも、奈良女でも。そして唯一、民青との対立で革マルに犠牲者が出た琉球でも、早目に手打ちをし、怨念を引き摺らなかった。また、民青もそうだが、革マルもクラス討論を重視した。これは今日の革マル全学連に受け継がれている。
4 早稲田で1972年、川口君誤認で自己批判し追い詰められたが、自力で巻き返した。党派の自己批判は稀。ここからのまさか晩回で底力を見せつけた。政治的勝利といってもよい。
5 対中核、対青解ではどっちがどうとは言い難いが、革マルは狙い撃ち、中核と青解は無差別爆撃の傾向が強い。そのぶん革マルに犠牲者が多かったのではないか。しかし「内ゲバ」が日本左翼に与えたマイナスはあまりにも大きかった。同時に三派が殺人に拠ってさえも、壊滅も自滅もしなかった事実は押さえておく必要がある。
6 「組織の革マル」といわれるが、理論学習では他の新左翼追随を許さない。また、こぶし文庫は知の宝庫だ。黒田は難し過ぎるので評価を保留するが、高知總や大久保そりやは分り易い。
7 街頭主義を排して、労働組合重視の路線を堅持している。私は松崎明は最後まで同盟員だったと思う。JR西日本も革マルの影響下にあると聞いた。岡山にも革マルがいるらしい。

 
 政治党派の強さは、公然部分ではなく、非公然部分にある。公然・非公然といっても物騒なはなしではない。各級議員や専従党員は、それとして党の表看板としての役目をもっている。しかし、しょせん浮草だ。党派の真骨頂は、党員が人民大衆とともに、その一員として要求にもとずく運動を組織する力量のいかんだ。あたりまえのことだが、案外、誤解がある。議員も専従も一党員にすぎない。「先生」でも「政治家」でもない。いわんや「指導者」などではない。

 学生運動。1963年革共同第三次分裂。このとき革マル派は全学連を「詐称」していた。傘下の学生自治会はわずか10~20。学部は憶えてないが、大学は憶えている(公安資料もある)。委員長はたしか北大だった。北教、帯広。早稲田、国学院、津田塾、金沢、奈良女、鹿児島、琉球。
 あれから五十年、いま革マル以外の全学連が雪崩を打って総崩れの中にあって、革マル全学連だけは、全学連の名に値しないとはいえ、五十年前の自治会数を保っているではないか。しかも、なんと驚くことに上記の各大学の自治会はほとんどそのまま、革マル傘下に残っているのだ。早稲田で当局との死闘に敗れた以外は。

 民青はどうか。1964年12月129自治会で再建した全学連は3年後には支持自治会を含めると350自治会、じつに全体の7割を傘下に置く。1966年に三派全学連が出来た。翌年1967年の「羽田・佐世保」では、共産党が多摩湖畔で赤旗まつりをやってくれた。お陰で「戦わない民青」の宣伝が学生の中に浸透し、一時伸び悩んだ。しかし東大闘争もなんとか勝利した。そしていざ1970年代へ。そこで何が起こったか。1972年春、共産党による党内の「戦う部分」の摘みとり=新日和見事件。ここですべてが済んだ。万事休す。以後、多少の波があったが民青系の青年学生運動は、コロコロ、コロコロと坂を転げ落ちる。1990年代、共産党の議席が回復した時期も含めて、民青が増えることは二度となかった。勢力はすぐに半減し、やがて十分の一になり、今日では最盛期の百分の一になった。全国制覇手前から「広大な空白」へ。さらに「壮大な〇」になった。40年後の崩壊のダメ押しが、先日の東大教養学部の全学連脱退だった。代議員大会では脱退問題ほとんど議論さえにならなかったという。執行部案は圧倒的多数で可決。

 党派は成員を資本主義社会の中枢におくり、可能ながぎり保護し温存しなければならない。それは党員が独占資本の搾取と戦わなくてよいという意味ではない。永続して戦うたために組織を温存しなければならないということだ。妥協も要るし、ときには裏切りと映る屈辱にも耐えねばなるまい。こういう基準で革マル派がよく戦っているのかどうか、私にはわからない。しかし、五十年間、拠点を守ったのは事実だ。トロツキスト・革マル派から学ぶことは多い。



古本屋通信       No 1343  3月13日

 
  ありゃ、星印が5つだ。

 アマゾンレビューに、久しぶりの ZYXさんの書き込みがあった。書き込みと言っても、何時も1~3行まで。それと、共産党本(新日本出版の本も)は常星印が1つ。なにせ 『敗北の文学』 を買ってなくて星印が1つのつわもの。
 ところが、勝書き込んだばかりの下記の本が最高評価。たぶんこれ読んでないんだ。まあ、どっちでもいいけど、京大ブントに根っこを持つマルクス主義青年同盟は岡山大学へやって来て寮生を殺した。大沢君という津島寮生だった。この学生寮はとうじ民青からプロ学同が政権を奪ったばかりだった。まあ、いろいろあって、民主統一同盟はいまや右なんだが、プロ学同もだんだん似てきた。いっそ荒戦旗を含めて3派で合体してはどうか。下にそれぞれの最新ページを照会・転載しておこう。




ZYXさんが書き込んだレビュー

「マル青同」=「民主統一同盟」―その本質と策動  日本共産党著
5つ星のうち 5.0 こんな党派もあったなあ…, 2015/3/13 レビュー対象商品: 「マル青同」=「民主統一同盟」―その本質と策動 (単行本)
「マル青同」=「民主統一同盟」がどんな組織だったかは、検索してみればわかると思います。
この本はわざわざ買って読む必要はぜんぜんありませんが、大学図書館に必要だと思います。もし所蔵していない大学図書館があれば、買ってください。



古本屋通信     No 1431   5月16日

  共産党に於ける学歴問題



 久しぶりに本の片付けが一段落したので、遊び気分でブログが書ける。表題の如く、堅いタイトルだが、あまり真面目には書かない。だからといって間違ったことも書きたくない。

 まずこのエントリーを立てたのには、触発されるものが2つあった。ひとつはキンピーサイトの投稿である。


1. KM生
2015年05月15日 11:41
山下よしき=鳥取大学卒
宮本たけし=和歌山大学放校
この差だニャー(^^)
 (「山下よしきと宮本たけし」への投稿)



 もうひとつは昨日の街頭演説会の弁士の春名である。

  春名なおあき 党中央委員 党高知県書記長 元衆院議員 日本共産党2016年参院比例代表(第1次)候補 高知大教育学部卒


 これはけっこう面白くかけそうだというのが私の助兵衛根性なのである。

 然し書きたい放題を核にしても、自分の事を棚上げしていてはフェアーではない。私の学歴を書いておく。最終学歴は岡山大学法文学部哲学科ということになっていて、これは卒業証書を取得しているのでウソではない。しかし学士入学からの卒業だから2年しか在籍していない。私の本当の卒業大学は(今回はじめて公表するが)香川大学教育学部である。ついでに連れ合いだが、同じ大学・学部であった。私は英語専攻、連れ合いは美術専攻だった。

 自分のことを書くのが目的ではない。ここでいわゆる駅弁大学について書いておこう。岡山大学も駅弁大学であろう。しかし広島大学は違うかもしれない。山下よしきの鳥取大学農学部も、宮本たけしの和歌山大学教育学部も、春名なおあきの高知大学教育学部も、私の香川大学教育学部も典型的な駅弁大学である。決して卑下してはいないが、国立大学の末席に名を連ねてはいるが、世間で言う二流大学である。或は旧帝大の東大・京大から見れば、広島大学や岡山大学が二流であって、鳥取大学以下は三流という事になる。

 学歴というのは就職するにせよ、議員に立候補するにせよ、個人に一生ついて廻る。学歴なんか問題じゃあないという奴ほど学歴にこだわる傾向も在る。それじゃあ、いっそ無視して「学歴欄」を空白にしておけばどうか、それとも嘘っぱちでいっそ東大卒で通したらどうか。これは学歴詐称で罰せられるのである。

 だったら反対に学歴を正面から取り上げて論じてみては如何かというのが、今回のこのエントリーである。それも学歴一般ではなく左翼、または共産党にとっての学歴を論じてみようではないか。


 ここでまず東大に関する事実を挙げることからはじめよう。日本共産党における歴代トップは其の多くが東大卒であった。宮本顕治(東大経済学部)、不破哲三(東大理学部)、志位和夫(東大工学部)、少し早いが坂井希(東大教育学部)。日本共産党だけではない。中核派の清水丈夫も東大だった。北小路敏は京大だったが。

 やはり左派組織のトップは東大でなければならないのか。私の結論を書けばこうだ。社会経験、とりわけ労働運動経験に勝るものはない。しかしそれが皆無の場合は学歴というより、それに顕れる知的判断力は高学歴のほうが圧倒的に安全率が高い。旧帝大、早慶上智に国会議員が多いのはそれなりに理由がある。もっとも、共産党の場合、宮本は天才だが、不破はボケ、志位はボンクラで学歴などアテにならない。

 私は駅弁大学が劣っているとは思っていなかった。高校時代はともかく、大学以来、私は東大、京大に劣等感を懐いたことはない。しかし宮本たけしを見ていると、やはり駅弁大学はダメなのかと思ってしまう。和歌山大学教育学部は決して誰でも入れる大学ではなかった。それでも低脳が生まれたのだ。安全率は高くなかったのだ。

 私は山下書記局長の誕生を歓迎した。駅弁大学、それもマイナー学部の農学部である。当初は志位より優れているかに見えた。やっぱりダメだった。そう思ったのは国会でブラック問題を取り上げたときだ。決定的にミスキャストだと思った。しかし元東大民青さんはそうは思っていなかったようで意外だった。今回のキンピーサイトも山下を一定評価しているように見える。

 私は坂井希が国会議員だったら、山下のような国会質問はしなかったと思う。私はそこに東大と鳥取大の能力の違いをどうしても見てしまう。コレを杞憂だと云うのは容易い。

 坂井の学歴について。私はもともと日本共産党の委員長というのは四年制大学の卒業者よりも高卒か専門学校の卒業がベターだと思ってきた。しかし今の社会では高卒労働者が階級的に成長できる条件にない。ならば坂井で仕方がない。吉良は今のところポカばかりだが、筋はよいし、なんといってもオーラが凄い。書記長になれる。早稲田文学部もよい。やはり私大も必要である。

 坂井の委員長の件。全学連の委員長から民青の委員長になったのが、そもそもオカシイといえばオカシイにだ。そのむかし川上徹が全学連委員長をおえて民青本部入りしたとき、民青の三役に就任する可能性は皆無だった。川上はヒラの中央常任医員に過ぎなかった。名前は既に失念してしまったが、中心はあくまで労働者出身の青年だった。高知の土屋にせよ、群馬の吉村にせよ労働者出身だったろう。これが正常なのだ。

 残念ながら、いまの高卒は階級的に成長できる条件がない。それは石村智子のような『賃労働と資本』さえも読んでいなかったり、たまに知識があると思えばスパイだったりで、目を覆いたくなる。

 企業が書類専攻で学歴カットするのは、それが便利だからだ。つまり安全性優先である。

 ここで学歴の積極性について一言。4年の学部にせよ、2年加えた大学院にせよ、最後まで単位を取って修了するにはそれなりに努力と忍耐が要る。この過程を経ていない石村はどうしようもないと思った。

 まだ書きたい事があるが、いちおう終えたい。

 最後になるが、私は busayo さんと違って、宮本たけしに腹の底から怒っている。とてもからかったり、あざ笑ったりする気になれない。許せない。しかし既に手遅れである。よくヒラの中央委員にしてもらったな。私は宮本を見て、どうしても石村を潰さねばと決心した。

 
  1. 2012/08/23(木) 12:21:55|
  2. 未分類