古本屋通信

ありゃ、えらい食いついてくるな

古本屋通信   No 2691    2017年  07月22日  

   
    ありゃ、えらい食いついてくるな

 直前エントリー 「デボーリンにしてはクド過ぎる。党カルト再登場か?」 の末尾をここに移して新しいエントリーを立てた。


 ありゃ、えらい食いついてくるな。まだ党カルトと断定し切れない所があるから、少し相手をして論破しておこうか。でもコッチも暇じゃあないから、これまでにしてよね。


715革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/22(土) 02:32:50.140
古本屋通信はとことんトンデモだねえ~
山口敬之の準強かんと倉敷民商事件を同一視するとか、もう常人の思考ではついていけないわ。
倉敷民商事件は明らかに公安案件の弾圧事件だ。それに対して、山口敬之の件は公安案件では全くないし、山口敬之の立場からしても権力の弾圧を受けるなどありえないことだ。 この件では逮捕状が出された後に、逮捕直前で上からの指示で逮捕がなされなかった。
政府中枢(具体的には官房長官)の介入があったことは明らかだ。
権力の御用ジャーナリストが性犯罪をもみ消してもらった件と、倉敷民商の公安案件を同一視するとは、もう人間の理解の範囲を超えてるよ。




 古本屋通信

 あんた、ヒト様の文をよく読めよ。私は 山口の事件(詩織の事件)と倉敷民商事件を同一視どころか、何の関係づけもしていない。引き合いに出したのはただ一点、逮捕状が出され、或いは警察に逮捕されたら犯罪(山口の場合は準強姦罪)が成立したように言うあんたの論法が間違っているという例証として引いたに過ぎない。あんたは上記で盛んに両事件の違いを言っている。仰るとおり「倉敷民商事件は明らかに公安案件の弾圧事件」だ。分かってるじゃないの。感心だ。共産党に近いね。 山口の事件(詩織の事件)は全く公安事件じゃない。それも仰るとおり。

 じゃあこうしようか。倉敷民商事件のような公安案件ではない一般刑事事件、何でも良いんだ、大昔は狭山事件なんてのがあったし、今も一般刑事事件は一杯ある。中には国家権力が比護しなければならない人物が容疑者になっている場合もあるだろう。あんたに言わせれば山口もそういう人物だという。それはそうなんだろうから認めてもよい。誰でもよい。逮捕されたら有罪か? 世の中には逮捕されて直ぐ釈放される案件は腐るほどある。また起訴されて無罪になる場合も多い。有罪が確定しても冤罪だというケースもある。あのなあ、私しゃ、逮捕状が出ても、パクラレても、何の犯罪にも相当しない(犯罪を構成しない)と、ただそれだけを言ってるのよ。この件はこれでオワリ。

 それでもう一度振り出しに戻るよ。あんたの論点は、あくまでこの事件の政治的背景を重視する立場だ。詩織を擁護する多くの論者は全てそうだ。そういう立場を私は一般的に総否定はしない。しかしこの二人のこの事件に限っては、事件の白黒は二人がホテルに入ってからの数時間の性行為がどうだったか、ただそれだけだと言っている。山口の政治との関わりも、警察の動きも、逮捕状の準備も、また其の執行の有無も、それらは性行為の犯罪性の有無と無関係であると言っている。

 目をくらまされてはならない。私は刑事事件の裁判には疎いが、犯罪の有無は行為によって判断されるだろう(だから共謀罪がトンデモ法なのだ)。容疑者とされた人物の社会的地位や政治的繋がりによって犯罪性が変ることはありえないだろう。それが裁判だと思っている。まあこれ位にしておくが、私しゃ、あんたのような論法の人は苦手じゃ。デボーリンにも同じような所があるが、一点思い込んだら百年目だ。執念じゃな。特にフェミニストにその傾向が強い。

 リアリストであれ、だ。最後に。事件は2年前だったな。あのなあ、この「事件」、実は実際に性交があったか否かだって、今となっては証明不可能じゃろう。詩織の膣から山口の精液は発見されるのでしょうか。皮肉じゃあないよ。これが性犯罪の裁判だろう。


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 スワッ、デボーリン再登場か? けど、上記で言明したとおり再論はしない。後は読者でご判断を。尚、デボーリン臭いと判断した根拠は、彼はとは書かず、かんと書く。いかにもフェミニストらしい。


716革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/22(土) 15:50:53.720
明白な証拠すら無視する性犯罪者擁護の古本屋通信。
被害者女性は山口敬之に米国でのジャーナリスト活動について相談した。
山口敬之は被害者女性を食事に誘い、被害者女性は酒を飲んで気を失った。被害者女性は気を失うほど飲んではおらず、山口敬之が酒にクスリを仕込んだと思われる
そうして被害者女性が気付くとホテルでレイプされた後だった
被害者女性と山口敬之とのメールのやり取り、被害者女性の下着から検出されたDNA、タクシー運転手の証言、ホテルの防犯カメラなどから山口敬之の準強かん罪は明白
それどころか、クスリを仕込んで準強かんするという手口から、山口敬之は常習犯であった可能性が高い
明白な証拠があるからこそ逮捕状が出て、逮捕寸前だったのだ。
逮捕状が出て逮捕直前に上からの指示で逮捕取りやめになるなどということは1度も経験がない、と40年以上刑事をやってきた人も口をそろえて証言している。そのようなありえない指示を出せるのは政権中枢にいる人物しかいない。
そして古本屋通信によればこれすらでっち上げであり、人権を侵害されたのは山口敬之の方であり、官房長官からの圧力など関係ないのだそうだ。こんなトンデモさんに粘着されたり勝手に支持されたりする人も迷惑だよねえ。
  1. 2017/07/22(土) 05:13:47|
  2. 未分類

党カルト再登場か?

古本屋通信   No 2690    2017年  07月21日  


   デボーリンにしてはクド過ぎる。党カルト再登場か?


 先日17日に2チャンに、デボーリンであるような、デボーリンでないような妙チクリンな投稿708があり(707「古本屋通信はとことんトンデモが続くなあ。公職選挙法で日本国籍がないと立候補できないということすら知らないとか… 性犯罪の被害者を叩くのは例によって古本屋の通常運転」は紛れもなくデボーリン投稿だが)、仕方なく一応デボーリンと見做して下記のように批判しておいた。その投稿708の続きが私の反論である。更にその後、709711の投稿があった。この2つは同一人だろう。そして今日になって、再び断続投稿が2件あった。713714である。この2つも同一人だろう(男と女の言葉を使い分けている)。後から考えると、709、711、713、714は、それぞれ少しずつ時をおいているが、全て同一人物と見做しうる。更に今となっては元々の708もデボーリンではなく、以下に続く同一人物の投稿だった可能性が強い。すなわち以前に暗躍した党カルトの再登場である。トコトンげすの荒しである。なぜなら、その後のメイン投稿である713は、当初の708と文言までソックリだからである。こういう繰り返しはためにする嫌がらせであり、デボーリンはしない。かりに708がデボーリンだとしても、その論破され尽くした文言をそのまま繰り返す713は紛れもなくカルト的嫌がらせである。近日中にデボーリンから何らかの釈明がなければ、一連の投稿は党カルトの再来と見做す。そして私の関連エントリーを消去し、以後は2チャンとの関わりを再度絶つことにする。それにしても「ワッチョイ」の名前は鬱陶しい。そもそも識別が不可能だから、読まされる方は堪らない。関係を断絶するしか手がなかろう。


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  古本屋通信   No 2682   2017年  07月17日  

  くどいなあ、デボーリンか?(現在拍手13個)


708 : 革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/16(日) 18:30:59.71 0
ろくに調べもせず安倍政権御用ジャーナリストの性犯罪擁護の古本屋通信。
山口敬之の準強かんについては警察・検察も証拠ありとして逮捕状を請求し、裁判所から逮捕状が出て、帰国する山口敬之を成田空港で逮捕するところまで行っていた。
だが逮捕直前に警視庁刑事部長中村格(「菅官房長官の片腕」として有名)からストップがかかり、逮捕はなされなかった。
刑事捜査経験者は、口をそろえてこのようなこと(逮捕状まで取りながら、逮捕直前に上の指示で逮捕をやめること)など通常ありえないと言っている。
このようなありえないことが起こったのは、菅官房長官から直接指示があったとしか考えられない。要するに安倍政権御用言論人だから逮捕するなという圧力がかかったのだ。これ以外の合理的解釈は不可能。


 昨日上記の投稿があったみたいだけど、ホントにデボーリンの投稿なのか疑っている。というのは余りにも目垢がついた従来のステレオタイプ( 行動や考え方が、固定的・画一的であり、新鮮味のないこと。紋切り型。ステロタイプ)の政治談議だからだ。言い尽くされて、論破され尽くしている。デボーリンなら、もう少し新鮮な切り口を見せてもよかろうに。

 それは措いて批判しておく。貴殿は何処までもブルジョア司法制度に絡めとられているね。このデッチアゲ強姦事件は政治的背景などいっさい問題にならない。当日の夜から明け方までの数時間に起った両者の性行為が、準強姦に当るか当らないかだけだ。警察の取り調べも、逮捕状も、起訴も、不起訴も関係ない。もちろん菅官房長官も無関係である。

 いったいコレが強姦、準強姦、強制猥褻等々の性犯罪に見えるか。しかも「事件」は2年前だ。あのなあ、2年前に互いに合意して性行為しても、後から腹が立って訴えてやれというケースはあるだろう。男の方は堪ったもんじゃあないね。

 まあ、どっちでも良いんだ。所詮は他人様の痴話喧嘩だ。詩織が何か再審査を請求しているらしい。私はその方面はド素人だが、却下されることは間違いないだろう。所詮は露出狂の売名行為だ。

 それよりも私はこの「事件」で山口氏の人権は著しく侵害されたと思う。なぜなら彼が詩織と性交したことが彼の意に反して広く世間に拡散されたからだ。何の違法もないのに世間のさらし者になった。これは当初からブル新聞は実名報道は避けるべきであった。いや、赤旗をはじめ少しでも報道の責任を自覚しているメディアは初めから黙殺した。そうあるべきであった。


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 追加された以下の4つの投稿はおそらく同一人物の投稿だろう。そして今となっては元投稿もデボーリンのものではない可能性が高い。デボーリンなら、ここまで目垢の着いた文章は書かないだろう。

709革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/16(日) 19:25:24.660
>>707
> 性犯罪の被害者を叩くのは例によって古本屋の通常運転
えっ、これは一体何の話?


711革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/17(月) 07:40:54.460
>>709
これだな
3036.html
>「性犯罪の被害者」って詩織だね。準強姦罪の被害者であることを証明してみろ。出来ないけど、池内沙織と同じなんだね。まあ他人の恋路に邪魔はすまい。
塩村文夏 = 詩織「準強姦」事件
3008.html


713革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/21(金) 15:56:57.230>>711
それ。古本屋通信はいつも性犯罪害者(?加害者の変換ミスだろう)を擁護する。そういう人はいるよ。
年齢のこともあるけど、身近に性犯罪を見たことも勉強したこともないような人はそもそも性犯罪について理解もできないからね。
女ですら自分や身の回りに性犯罪を見たこともない人は性犯罪被害者叩きに参加したりする。
山口敬之の準強かんは明白。警察・検察が証拠ありとして逮捕状まで取ってるわけだからね。
山口敬之の政権御用言論人としての立場から見て、権力のでっち上げはありえない。山口敬之の性犯罪は明白。
そして官房長官からの直接指示で逮捕が阻止されたことも明白。古本屋通信はそんなことすら理解できない。
まあ、検察審査会で「不起訴不当」の議決が出て強制起訴になるだろうけどね。政権交替すれば、菅官房長官の指示まで暴露されるかもしれない。
 

714革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/21(金) 19:00:24.490
>>711
驚いた。
そんなこと言うなんてどうかしてるわ。


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  古本屋通信

 上記がデボーリンではない点(且つ決定的に誤っている点)をひとつだけ指摘しておく。

 「山口敬之の準強かんは明白。警察・検察が証拠ありとして逮捕状まで取ってるわけだからね」。

 笑わせるではないか、党カルト君。逮捕されたら犯罪人かい? そうかい倉敷民商のねやさんや須増さんは有罪なんかい、犯人なんかい? もういい、てめえなんか相手にする時間はないワイ、低脳、サヨナラ。バイバイ。



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 ありゃ。えらい食いついてくるな。まだ党カルトと断定し切れない所があるから、少し相手をして論破しておこうか。でもコッチも暇じゃあないから、これまでにしてよね。

715革命的名無しさん (ワッチョイ)
2017/07/22(土) 02:32:50.140
古本屋通信はとことんトンデモだねえ~
山口敬之の準強かんと倉敷民商事件を同一視するとか、もう常人の思考ではついていけないわ。
倉敷民商事件は明らかに公安案件の弾圧事件だ。それに対して、山口敬之の件は公安案件では全くないし、山口敬之の立場からしても権力の弾圧を受けるなどありえないことだ。
この件では逮捕状が出された後に、逮捕直前で上からの指示で逮捕がなされなかった。
政府中枢(具体的には官房長官)の介入があったことは明らかだ。
権力の御用ジャーナリストが性犯罪をもみ消してもらった件と、倉敷民商の公安案件を同一視するとは、もう人間の理解の範囲を超えてるよ。



 古本屋通信

 あんた、ヒト様の文をよく読めよ。私は 山口の事件(詩織の事件)と倉敷民商事件を同一視どころか、何の関係づけもしていない。引き合いに出したのはただ一点、逮捕状が出され、或いは警察に逮捕されたら犯罪(山口の場合は準強姦罪)が成立したように言うあんたの論法が間違っているという例証として引いたに過ぎない。あんたは上記で盛んに両事件の違いを言っている。仰るとおり「倉敷民商事件は明らかに公安案件の弾圧事件」だ。分かってるじゃないの。感心だ。共産党に近いね。 山口の事件(詩織の事件)は全く公安事件じゃない。それも仰るとおり。

 じゃあこうしようか。倉敷民商事件のような公安案件ではない一般刑事事件、何でも良いんだ、大昔は狭山事件なんてのがあったし、今も一般刑事事件は一杯ある。中には国家権力が比護しなければならない人物が容疑者になっている場合もあるだろう。あんたに言わせれば山口もそういう人物だという。それはそうなんだろうから認めてもよい。誰でもよい。逮捕されたら有罪か? 世の中には逮捕されて直ぐ釈放される案件は腐るほどある。また起訴されて無罪になる場合も多い。有罪が確定しても冤罪だというケースもある。あのなあ、私しゃ、逮捕状が出たのも、パクラレたのも、何の犯罪にも相当しない(犯罪を構成しない)と、ただそれだけを言ってるのよ。この件はこれでオワリ。

 それでもう一度振り出しに戻るよ。あんたの論点は、あくまでこの事件の政治的背景を重視する立場だ。詩織を擁護する多くの論者は全てそうだ。そういう立場を私は一般的に総否定はしない。しかしこの二人のこの事件に限っては、事件の白黒は二人がホテルに入ってからの数時間の性行為がどうだったか、ただそれだけだと言っている。山口の政治との関わりも、警察の動きも、逮捕状の準備も、また其の執行の有無も、それらは性行為の犯罪性の有無と無関係であると言っている。

 目をくらまされてはならない。私は刑事事件の裁判には疎いが、犯罪の有無は行為によって判断されるだろう。容疑者とされた人物の社会的地位や政治的繋がりによって犯罪性が変ることはありえないだろう。それが裁判だと思っている。まあこれ位にしておくが、私しゃ、あんたのような論法の人は苦手じゃ。デボーリンも同じような所があるが、一点思い込んだら百年目だ。執念じゃな。特にフェミニストにその傾向が強い。

 リアリストであれ、だ。最後に事件は2年前だったな。あのなあ、この「事件」、実は実際に性交があったか否かだって、今となっては証明不可能じゃろう。詩織の膣から山口の精液は発見されるのでしょうか。皮肉じゃあないよ。これが性犯罪の裁判だろう。
  1. 2017/07/21(金) 19:49:12|
  2. 未分類

思弁のキャッチボール

古本屋通信   No 2689    2017年  07月21日  


    思弁のキャッチボール

思弁 実践や経験を介さないで、純粋な思惟・理性のみによって事物の真相に到達しようとすること。実践や経験を重んじる立場からは、抽象的理論・空論の意となる。

 ネット・ブログにコピペは自由だし、金も手間ひまも懸からないから、いちおう公平に全文を貼り、更に全文を再録のうえ、私が無意味だと思う殆どの箇所を棒線で消す。そして最終に残された高原文の数行が如何に狂気に満ちた非日本語かということを指摘しておく。つまり石崎の高原批判も、それに対する高原の弁明も、その一切合財が思弁のキャッチボールであり、生きて生活する人間の言語ではないということだ。実はあまり言いたくないのだが(低脳の石崎があまりにもしばしば高原とジャレ合うので)、このさい高原の「狂気」についても一言しておく。といっても言葉の上での批判は不要であろう。このエントリー末尾に高原HP冒頭を転載しておくのでご覧ください





 高原さんのコメントに(文章を一部修正しました)
 2017年07月18日 (火)  石崎徹
 高原さんの文章は長いのでまだ初めの部分だけしか読めていませんが、高原さんの文章のどこに違和感があるのかということが今回ふと分かったような気がするので、そのことを書きます。

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」 (高原文)

 高原さんの言おうとしていることへの反発ではないのです。きわめて単純に、文章表現への疑問なのです。

「人類が生きるとは」というフレーズで始まると、「人類にはこういう生き方しかない」というふうに聞こえてしまいます。さらに結末が「ことである」となっているので、そういう意味あいが強調されています。
 そこでぼくのような人間は、「人はもっとさまざまに生きているよ」と言いたくなってしまうのです。

 しかしよく読んでみると、高原さんが言いたいのは、人類の生き方を(あなたの文章が客観的に表現してしまっているような)狭い範囲に押し込めることではなくて、生きるということのひとつの側面を言っているに過ぎないのだということがわかります。人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。それは言ってみれば常識的なことで、それなのになぜ理解してくれないのかという高原さんのいらだちがあったようです。

 そこにぼくらのあいだの誤解があります。単純なことなのです。「人類が生きるとは」と「ことである」とを削除して言い換えれば済むことです。

「人類が生きるとは」→「人は」
「ことである」→「生きてきた」

 参考例

 人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた。

 こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。

 もっとも高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)、それに対してはいっぱい言いたいことがあります。



 689:人類と人 by 高原利生  on 2017/07/19 at 15:50:55 
 ひとことだけ。
 全体としてコメント626、633などでは、「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」を分けて書いています。
 文章のまずさでご迷惑をかけます。

18時半追記
 取り上げていただいた文は、「人類の生きる全体構造」の本質についての仮説です。
 だから「高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)」というのは違うのです。
 「高原さんの文章はそうなってしまっている」と理解されるのは困りましたね。石崎さんにそう誤解されたことが多いです。何かの本質についての仮説を、何かの全てを語っていると誤解されるということですね。



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   再録 不要箇所消去


高原さんの文章は長いのでまだ初めの部分だけしか読めていませんが、高原さんの文章のどこに違和感があるのかということが今回ふと分かったような気がするので、そのことを書きます

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」 (高原文)

 高原さんの言おうとしていることへの反発ではないのです。きわめて単純に、文章表現への疑問なのです。

「人類が生きるとは」というフレーズで始まると、「人類にはこういう生き方しかない」というふうに聞こえてしまいます。さらに結末が「ことである」となっているので、そういう意味あいが強調されています。
 そこでぼくのような人間は、「人はもっとさまざまに生きているよ」と言いたくなってしまうのです。

 しかしよく読んでみると、高原さんが言いたいのは、人類の生き方を(あなたの文章が客観的に表現してしまっているような)狭い範囲に押し込めることではなくて、生きるということのひとつの側面を言っているに過ぎないのだということがわかります。人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。それは言ってみれば常識的なことで、それなのになぜ理解してくれないのかという高原さんのいらだちがあったようです。

 そこにぼくらのあいだの誤解があります。単純なことなのです。「人類が生きるとは」と「ことである」とを削除して言い換えれば済むことです。

「人類が生きるとは」→「人は」
「ことである」→「生きてきた」

 参考例

 人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた。

 こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。

 もっとも高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)、それに対してはいっぱい言いたいことがあります。


 689:人類と人 by 高原利生  on 2017/07/19 at 15:50:55 
 ひとことだけ。
 全体としてコメント626、633などでは、「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」を分けて書いています。
 文章のまずさでご迷惑をかけます。

18時半追記
 取り上げていただいた文は、「人類の生きる全体構造」の本質についての仮説です。
 だから「高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)」というのは違うのです。
 「高原さんの文章はそうなってしまっている」と理解されるのは困りましたね。石崎さんにそう誤解されたことが多いです。何かの本質についての仮説を、何かの全てを語っていると誤解されるということですね



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  残された高原文古本屋通信評


 「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである (高原文)



 べつにアリストテレスやカントを読むときのように構えて読んで差し上げる必要はありません。ギリシャ語やドイツ語の翻訳ではなく、ナマの日本語文だからです。何の前提もなく、また先入観も持つことなく、自然に日本語として受容できるか、それともできないか。私は大学で少しは哲学をかじった人間ですが、まったくチンプンカンプンですね。たぶん私は、日本の哲学者の文は数百人の一千文以上を読んできたと思いますが、こういう日本語の文に出会ったことはかつて一度もありません。別に好意的に読み取って差し上げようとしない代わりに、意地悪に悪意をもって難癖を付けようとも思いません。ふつうに読んでまったく理解できません。そしてこの文の、よく言えば「難解さ」、もっと率直に「狂気」は、私の理解では心療内科領域です。この文に誠実に応じた石崎文は、もちろん心療内科領域ではなく、単なる低脳文です。

 以下は高原HPの冒頭部分。


現実論理への道

技術,制度,生活の背後にある「価値」と「方法,論理」


高原利生(安井利生)ugg21948@outlook.com
takahara-t@m.ieice.org
http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

怒りと絶望と少しの希望の間で,全てを考え直す旧題 世界観とその実現(要約)   高原利生  20160118,19,20,23,25,26,28,29,30,31,0201,02,04,07,13,14,16,17,26,29,
0306,07,09,10,13,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,
0401,02,03,04,05,06,07,08,09(題変更),10,12,13,14,15,16,17,18,23,24,27,
0502,07,09,11,21,29,30,0601,03,13,22,0701,05,07,10,12,30,0819,
20170118,19,20,0711,12,13,16,17
(まえがきと概要1:基本となる価値と論理)

 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、本637、638と最新発表論文(今は、情報技術フォーラムFIT2016、電気・情報関連中国支部連合大会CGK2016、情報処理学会IPSJ2017、2017年9月発表のFIT2017)が、今までの高原利生の人生総括である。今までの発表を分かりやすくまとめなおした方がいいかもしれないが、そうすると、思考の過程が見にくくなる恐れがあるので行わない、というのが、怠惰の言い訳である。(2017年06月26日追記)

 石崎徹氏ブログへのコメント626、633の中で、FIT2016で書いた「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文を引用している。これは、世界の過去、現在、未来をどう見るかという世界観の一部でもある。

 ある人から、2017年1月16日に、コメント626に説教臭さを感じてしまうというメールがあった。
この人は言う。
「<人類が生きるとは……である>と数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ありません。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれています。」
「ぼくは人生論が嫌いなのです。人生論とは説教です。人はどう生きるべきかについての御託です。でも人はそうは生きられないよ、というのがぼくの書こうとすることです。
 ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」(以上、メール)

 また「御託」と言われるだろうが少し反論しておく。
 以下の思考の前提になっているのは、粒度である。人は、制限された能力で世界を切り取るため、粒度を必要とする。オブジェクトとは、世界からある粒度で切り取った情報である。機械は制限された粒度を必要としない(ように扱うことはできる)。情報量が、昔に比べて画期的に増えた対策が、粒度の意識だと言ってもよい。2017年7月17日

理想について 1:理想は「状態」でなく運動であること
 高原は、今、自分を含めて「人はどう生きるべきか」が根本的に違っていると思っている。この数年の論文のテーマは生き方の追究だった。
 「人は人生論の説く理想のようには生きられないよ」と言う人がいる。そこで述べられる理想が違っているのではないだろうかと思うので、理想について再考する。
 理想は状態ではなく、努力の運動、過程であると言う意味の文が「ドイツイデオロギー」にある。これは「共産主義」の「定義」について述べたところで、「共産主義」とはある状態を指すものでなく、それを目指す運動、過程を指すのだと語ったところである(正確な引用は、ホームページの別の場所に書いた)。宮沢賢治が1926年に「農民芸術概論綱要」で「永久の未完成これ完成である」と似たような表現をした。マルクスとエンゲルスは、これより80年ほど早い。

 もっと早いのがあった。植田さんから下記のメールを頂いた。
 「論語の解説書「生きるための論語」安富歩/ちくま新書
を読んでいたら、似たような内容のところに出会いました。
『これを知るを知ると為し、知らざるは知らざると為す、これ知るなり』
 この論語の一節に関して、こう解説しているのです。
 解説:
「知の峻別がフィードバックされて元の知を修正する、これの連続過程が知そのもの。
 知は静的な状態、対象ではなくダイナミックな運動、全体の過程そのものが知である。
 知の過程の名称、この過程の繰り返し全体が知である」(植田氏メール引用終わり)

 これは、「知」について述べたことで、「理想」や「価値」について述べたものではないが、「理想」や「価値」も、もちろん、「知」の生み出したものである。(念のため2017.07.19追記)

 実は、「理想を状態でなく運動、過程である」ととらえることが、生きる態度にどう繋がるのかと昨日、自問し、答えが出るのに一日かかった。頭が死んでいない普通の人には自明なのかもしれないが、分かってしまえば当たり前と思いつつ書いておく。
 生きる態度とは、今の一瞬の「態度-方法-行動または認識」という連鎖の中の、さらに冒頭にある。「態度-方法-行動または認識」の全ての要素が運動、過程であると、より整合的な全体ができるのではないか?
 後の(まえがきと概要3:生きる態度を邪魔するもの三つ)を書くのに、2017年7月16日の半日を要した。この当たり前のような結論にも時間がかかった気がする。考え直すということに踏み出すためには、少しの勇気がいる。20170716

理想について 2:歴史と論理の一致という命題によって、歴史から理想を求めることができる
 弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。注
 注:明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだったが、エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きでも実質的に扱っている。もちろん、これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルによれば、物事に内在する論理が展開して現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。

 歴史と論理は大まかには一致するという命題は、歴史の中に本質的論理を見つける可能性があることを述べている。ここで、論理と本質を同じような意味に使っている。論理的と物理的を対比して使うことがあるが(これは、設計ないし工学系の人間に特有のことかもしれない。論理像を物理的に実現するのが設計なので、設計ないし工学の思考では身に付いている)、この場合も、「論理的」は抽象的、本質的、「物理的」は具体的、現象的という意味である。
 これから次の仮説ができる。
 論理の中にある本質が必ず歪んで実現される実際のこの世では、歴史から抽出された本質は、理想、価値になり得る。

 この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったかに依存する。今の場合の歴史は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。
 この数千年は、人類が(言語の発明、火の利用、道具の利用に続き)本格的に対象化を開始して以降の歴史である。
 この八千年前の農業革命のエネルギーと自然の対象化が、対象化の本格的な開始であった証拠は、二千年遅れて物々交換と所有という対象の自分への一体化、さらに二千年遅れて自然と神への一体化という自分の対象への一体化が始まったことに示される。対象化の反対概念を作ったことが、人類の新しい段階の可能性を作ったと思う。(2017年7月13日追記)
 詳しくは、高原の一体化矛盾についての論文を見ていただくしかないが、対象化の反対概念を成立させたのは、言語の発明、火の利用、道具の利用という10万―100万年の昔の対象化ではなく、八千年前の農業革命が起こしたエネルギーと自然の対象化だった。このあたりの詳しい検討は、まだまだ必要である。
 そしてコメント633で述べた対象化と一体化の矛盾(二つの運動オブジェクトの矛盾)が始まる。ただし、対象化の開始時期と一体化の開始時期にはズレがあった。(2017年3月26日、7月12日追記)

 対象化と一体化の矛盾というのは、一体型矛盾の一種である。従来の両立矛盾が普通の両立矛盾と一体型矛盾に分かれる。エンゲルスの三つの法則とは少し異なる。エンゲルスの「対立物の統一」は矛盾の定義に関する。エンゲルスの残り二つが矛盾の分類である。この二つを四つに分類しなおしている。下記11の量的変化はエンゲルスは矛盾と扱わないが、これも運動なので矛盾ととらえている。FIT2016は散々紹介してきてリンクも示しているが、見られていないと思うので、一部を引用する。

 以下、矛盾の分類についてのFIT2016和訳の記述を書き直した。2017年に記述を変更している。まだまだ検討の余地がある。2010年以来、一体型矛盾を検討しているが、7年経ち、まだ道半ばである。
 矛盾は、通常の変化、変更である狭義の差異解消矛盾と、従来の通常の矛盾である両立矛盾に分かれる。両立矛盾も広義の差異解消と呼べる。その理由は、両立していない状態から両立の状態への差異解消という粒度があるからである。
 1.差異解消矛盾
   11. 量的変化を起こす(値)
   12. 量的変化により両立二項が質的変化を起こす(値から属性変化):例:水の沸騰
 2.両立矛盾(値、属性)
      21. 二項の両立を実現する
   22. 統合された二項が弁証法的否定され質的変化を起こす。例: 全ての製品。それぞれの「部品」が構成されて、車のような新しい質を持った製品になる。
 3.一体型矛盾(オブジェクト、属性)
   23. 特別な両立矛盾で両項を「変更し続ける」。(FIT2016 では「高め続ける」としていたが間違いだったのでFIT2017で、訂正した。悪化され続けることもある。良くなる/悪くなるというのは、人のとらえる価値に依存する) (2017.03.26、07.12、07.20追記)

 以上が、理想,価値の成立根拠が現実の歴史の総括にあるということと、理想,価値が状態でなく過程,運動であることの説明である。
 このような目的、理想が「でも人は理想のようには生きられない」という理想でないために必要なことだと思う。
 しつこいが、書くことは考えることである。ここでも、今までに分かっていたことに、自分で初めて分かった(2017年1月26日)ことを加えて書いた。悪文の弁明にもなったかもしれない。

価値(理想)と事実の同時認識の必要性
 理想、価値は、生きる態度のために必要なので、哲学の一要素であると考えている。
 先の批判メールの人と一部一致するのは、哲学は時間的に科学の前にあるものだというとらえ方である。そして、どうしていいか分からないが行動しなければならない目の前の物事という事実に対し、意識している価値だけを根拠に(世界観と、意識していない価値に規定されている潜在意識によって)目をつむってエイッと飛ばなければならない。これが、方法、論理学は別にして、科学に移行せずに残っている哲学である「世界観」と「態度」の役割である。
 そして、方法、論理による判断は、必ず、理想、価値が具体化された目的と現実の差異解消のために行われる。
(これで抜けているのは、「音楽」や「小説」などだ)

 事実と価値を、1.相互規定があり、従って同時に把握、変更する一体として観る態度、2.謙虚にかつ批判的に観る態度は必須であるというのもこの数十年の歴史的教訓の一つである。
 理想、価値がないと事実を見ることができず、事実があって始めて理想、価値が生まれる。事実と価値は同時に決める(後に述べる)矛盾である。「人類が生きるとは云々」という文は、事実と価値,理想の双方を対等に含む。事実と価値,理想が同時に必要だということが、コメント626の全体をとおして言い続けたことであった。
 謙虚な態度と批判的に観る態度も、同時に実現する矛盾である。
 この二つがないため、多くは、今のマスコミや政党、マスコミに登場する評論家のように、現状を変えず感情に迎合する保守になってしまう。

 事実と価値,理想の両立の客観的・主観的実現が、若きマルクスが目指し、サルトルの全体化の目指したことだ。「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」
 もう一つ、この文で、言いたいことは、あるべき価値、理想も、人が作っていく、作り続けるものであることである。つまり、価値、理想は、静的状態でなく、実現し続ける運動、過程であり、同時に、求め続け作り続けるものである。
 「もう一つ、この文で、言いたいことは、」と書いてしまったが、繰り返しになるが、と書いた方が良かった。コメント626、633に、「、、し続ける」という表現が頻発する。「、、し続ける」ということは、常に未完であるということである。
 これも、過去の総括から得られた。繰り返しになるが、この文は変えられない。

論理について
 ここまでの記述でも、論理は一方向に進まず、概念にも双方向関係がありお互いを含みあっている。これが問題だった。このため、全体を理解しないと部分が分からない事態が必ず起こる。これをどう解決するかを今まで延々と述べてきた。また全体の中の位置を示すように努力してコメント626と633を書いたつもりだ。
 高原の用語使用、悪文の問題もある。(用語使用についてはコメント633で苦しい言い訳をしている。)
 コメント626、633の記述の方法は、FIT2016などで書いている矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法である。
 コメント626、633の繰り返しになるが、なぜ矛盾概念が必要かというと、一方向に進まない事実を表すために双方向性を表す事実の最小単位が必要だからである。この最小単位が矛盾である。そしてどういう事実を扱うかを決めるのが粒度で、粒度を管理する思考が根源的網羅思考である。余計な固定観念を捨てれば、この方法が最も単純、簡単である。IPSJ2017では、「大きな問題」に必要な矛盾と根源的網羅思考による解き方を提案している。
 また、これは、「人類が生きるとは……であると数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ない。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれている」という批判に対応している。「無限に多様で無限に複雑」な事実を扱う近似モデルの最小単位が矛盾である。

哲学を作っている
 コメント626、FIT2016、IPSJ2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらにより、世界観の一部として「生きる構造」と生き方を考察した。
 コメント633、FIT2016、CGK2016、FIT2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらと「生きる構造」とにより、「ポスト資本主義」と生き方を考察した。

 人類の過去の歴史認識,現在の生きる構造,未来像、価値観からなる世界観、態度、方法が哲学だとすると、高原が作っているのは哲学である。メールをくれた人は、従来の哲学に満足しているらしい。あいにく高原は、この人と事実認識が異なり、今は、哲学が存在しない危機にあるので、事実主義(従来の「唯物論」)と弁証法による新しい哲学を作っている。
 メール氏は「ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」と言う。

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文が、人類の歴史と現在を俯瞰して観た「生きる全体構造」であるのに対し、このメール氏の「哲学、現実と科学」は、「生きる一瞬の構造」に関する。高原利生の「生きる全体構造」「生きる一瞬の構造」は、コメント626で述べたものである。「生きる全体構造」は、現状であり本質であり理想であった。「生きる全体構造」は、変えられない、「生きる一瞬の構造」の要素だけが変えられる。変えられるので「生きる全体構造」に合うように変えるべきであるという当たり前のことを述べている。

 しかし、メール氏のこの言は、現状を根本的に変える必要のないことを暗に述べている。
 これ自体、メール氏への批判であるが、内容についての疑問、批判を二つ述べる。
 一つは、エンゲルスが言ったという形式論理学の哲学、筋道を立てて考えていくというのはよく分からない。コメント626などに書いた意味で、ほとんどの判断は、形式論理ではできない。
 二つ目、「現実を先入観なしに見る」ことは、不可能である。せいぜい、よりよい世界観、態度、方法を持つ努力をすることができるだけである。これは高原の結論に等しい。20170118,19,20
  1. 2017/07/21(金) 04:17:21|
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村岡到氏の共産党批判を読む

古本屋通信   No 2688    2017年  07月20日  


    村岡到氏の共産党批判を読む

 福山の同業者・神原卓志さんが仕事のついでに季刊雑誌 『フラタニティ』 No.3・No.5 を下さった。見慣れぬ雑誌だったが、表紙下部に「ロゴス」とあったのでピンと来た。やはり村岡到氏が編集をやっている雑誌だった。本誌はまだ読んでいないが、その間の挟んであった4ページの「日本共産党の現状と課題ー第二七大会への論評」を一読した。一読して村岡文全体の論評をしようとは思わなかったが、ただ一箇所気になる記述があったので、それを書き留めておきたいと思った。

 その前に村岡氏に対する私の見方だが、氏は長期にわたって「日本共産党との対話」を提唱し、また彼なりに実践してきた人である。これに対する私の評価だが、彼は中核派、かけはし派(第四インター)を経て、日本共産党のいわば同伴者の地点に辿り着いた人である、だが私はこの到達は(ユニークではあるが)氏のマルクス主義の最終的放棄だと見做している。それは氏が日本共産党の誰からも相手にされなかったからではない。そうではなくて、マルクス主義的組織論からは到底ありえない趣味者の遊戯だからだ。私的なコトを書くならば、私の古本屋通信は村岡氏を反面教師として出発した。つまり俺は日本共産党とは対話など絶対にしないゾと覚悟を決めて出発したのだ。私は、日本共産党とはあくまでたたかううゾという決意で出発した。またそれを貫いたつもりである。私は不破や志位と対話するというような非マルクス主義的態度(または方法)が耐えられないのだ。

 以上が前置きだが、前置きが少し長くなったのは、以下の本文が短い言い訳でもある。

 4ページにわたる村岡文は、日本共産党第27回大会決定の個別について、その前大会との矛盾や破綻をアレコレと論っている。然しその基本的立場は「自共対決」から「野党共闘」への路線転換を賞賛する立場である。これは彼にしてみれば日本共産党に寄り添ってその矛盾を語っているつもりなのだが、すでに社民以下の思想的頽廃である。これを4ベージの最初の1ベージで読んだとき、私は以下の村岡文を読む意欲を完全に失った。彼は彼流に、第27回大会決定を、重箱の隅をつつくごとくケチをつけているだけである。ただ一箇所、以下の文言にアレッと思ったので、それを挙げておく。最終ページの以下である。

 「決議」では「労働者階級」が九回も強調されている。綱領では二回だけ使われているが、死語に近かった。それなのに、なぜこんどは頻回に使うことになったのか、実は、「労働者階級』という、マルクス主義の伝統的理解の正否が問われているのである。「立憲主義」「人権」「個人の尊厳」ーーこの三つの用語は、マルクス主義に存在しないどころか、「没階級的」誤りとして否定されていた。資本主義社会は、「階級社会」としてではなく、「格差社会」として捉えるべきである。

 私には前半はいちおう分かるが、後半の2文はチンプンカンプンである。この認識こそマルクス主義の基準からは理解不能な珍論ではないか。そして私が言いたいのは、この非マルクス主義的認識こそが雑誌『フラタニティ』編集の基調になっているのではないかという点である。個別の論稿はまだ読んでいないものの、執筆者の何人かは名前を知っている。この中にスパイ・松竹伸幸の名前を発見して驚愕した。まさに社民以下ではないか。私はそもそもこういうスパイさえも容認するフォーラム形式の言論空間に大いなる疑問を持つ者である。
  1. 2017/07/20(木) 21:08:31|
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東京大学新聞チャンネル第17回

古本屋通信   No 2687    2017年  07月19日  


 東京大学新聞  チャンネル 第17  1968 (昭和43)

   東大闘争特集 第四回

 当初、東大闘争特集を企画した時は昭和43年度内(12月末まで、精々翌年3月まで)と考えていた。周知のように、東大闘争は翌年秩父宮ラグビー場で開かれた7学部集会を一応の結節点とするからだ。今回掲載した各月とそれ以後は謂わば闘争の山場であり、闘う学生たちにとっては「嵐の中の青春」だったろう。ところが東京大学新聞を眺める私の目からは、そういう息吹きが一向に伝わって来ないのだ。やはり新聞というものは古くなればタダの古新聞だという気がしないでもない。いちおう東大闘争特集は今回で打ち切ろうと思う。すこし疲れたのだ。あとの通常企画は続行するが、今までのようなペースにはならないだろう。未定という事である。

語註 この新聞では「全共闘」の語を避けて、殆どの場合「全学共」と表記しているようだ。


 8月5日号

「医学部の異常事態について」なるパンフレットに答える 東大医学部・基礎病院連合実行委員会


 9月2日号
 
大学側、「解決策」示す 告示を全学生に郵送  医処分は白紙還元  東大闘争 大衆団交が依然焦点  学部段階の団交を追求 中央委  全学共 試験ボイコットを提起  大学当局 「暴力」排除を強調
医学部本館封鎖さる 卒試・スト終結宣言に抗議 研究設備に手をふれず 全学共


 9月9日号

病院封鎖めぐり緊迫  封鎖を実力阻止の構え 七者協  7日の決起集会 泊り込み体制を確認
時計台放送 封鎖の意志なしと放送
七者協 全学スト打ち出す  7日の総決起集会に二千人
教養学部 全提案が否決 代議員大会 スト体制再確立が焦点


 9月16日号

東大闘争 闘争体制再建が焦点 18日、全学ストに主力 七者協  法ではスト否決 スト終結派も動き
団交拒否すれば封鎖 全額共闘会議が方針 16日、教養で事務封鎖か 全学闘書記局
全額共闘会議 あくまで総長団交要求 全額無期限ストを追求 
学部説明会に抗議 13日全学総決起集会  1
1日七者協集会 十八日全学スト提起さる 一部学生のテロ行為糾弾

臨時 読書 吉開那津子著  新日本出版・680円
日中友好協会分裂の中で 党員像の再構成 大国主義的干渉に抗して 文学部4年 田所博 共産党員の意識 歌重と行方とのずれ 行方の不安 押さえようもない涙 アブラハムとの類似(古本屋註 当時愛読した吉開の出世作だったので懐かしくて挿入した)


 9月23日号

東大闘争 先鋭化の方向へ 第二波統一行動を予定 七者協  工、基礎科が無期限ストへ
本館前で大衆団交 医教授会 卒試めぐり動揺 医学部  22日夜、医局を封鎖
9・18 七者協が統一スト 東大の民主化を要求 闘争体制は強化の方向
駒場 事務封鎖決行さる 16日一号館占拠 スト実行委ら 教官・学生ら 討論集会開く



 9月30日号

大学側、新たに対応示す 十日頃に全学集会か 二十七日、学部長会議で内定
東大闘争、さらに長期化へ 経、教育が無期限スト突入 スト終結派は退潮の気配
医局封鎖を決行 27日、医局員も参加 全学共
各層の独自行動を強化 七者協 医局封鎖に抗議 27日 中央委 政府の攻撃に反対
相次ぐ医局占拠 医局員も行動に参加 全学共闘会議 医学部卒試強行に抗議
 


 10月7日号

全学無期限スト体制へ 法もストへの動き  理、農、薬も無期限ストへ 
文部省の直接介入も焦点 七者協10・8統一行動予定



 10月14日号
 
全学無期限スト体制を確立  法も無期限ストに突入 要求項目明確化が争点
法学部 12日無期限すと突入 全学共には結集せず 十六時間の討論のすえ

各派「全学連」 新宿デモに七千人 「米タン阻止・山崎君追悼」で



 10月21日号
 
方針明確化が争点に  理、「大学民主化」の方針確認 法、再びスト収拾派が動き<
10・21統一行動 全国ゼネストへ動き 60自治会がスト権確立 全学連 各派「全学連」「米タン阻止闘争」展開か


 10月26日号

10・21闘争 全国各地で圧倒的な高揚 80自治会が決起 全学連
警視庁 新宿デモに騒乱罪適用  全国で五万人が集会
  1. 2017/07/19(水) 04:08:14|
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