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古本屋通信

出隆の党除名がピンと来ない

古本屋通信   No 3654    2018年  11月17日


    出隆の党除名がピンと来ない


  以下の丸山眞生様の投稿なんだけど、どうもピンと来ないんですよ。確かにウィキには1964年に除名されたという記述があるし、その他にもネット上の質問とアンサーで、4・17の党のスト破りに抗議した12人の知識人の声明に名前を連ねて除名されたとなっているのです。その部分を引用してみますね。



2. 丸山眞生
2018年11月17日 18:21
渡辺恒雄の師匠は、「哲学以前」が代表作であり、東京都知事選挙に出馬経験がある哲学研究者の出隆さん(日本共産党を除名)。



1948年(昭和23年)、日本共産党に入党。1951年には東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選。1956年から日本哲学会委員長を1期務めた。1964年(昭和39年)日本共産党を除名される (ウィキペディア)



哲学者出隆が日本共産党を除名になった理由は何ですか。
ベストアンサーに選ばれた回答
2017/9/2122:00:11
◆簡潔に言えば、党の方針と異なる意見・見解を、文化人12人で発表したから。
*********************************
<詳細>
・昭和39年(1964年)の春闘で、労働組合の全国組織である社会党系「総評」が
大幅値上げと公務員組合のスト権奪還とからめて公労協の半日ゼネストを4月17日に設定したことが発端。
・経済要求とスト権を結合したこの闘いを右派の民社党系全労会議は「違法政治スト」として反対したが、共産党も直前になって〝敵の挑発スト〟だから断固反対の「4・8声明」を出し、公労協各労組の大会決定を無視して全力で切り崩しを始めた。「革命の前衛党」が労働組合300万人のストに敵対するこの異変は職場労働者の怒りを巻き起こした。
(1964年当時は中ソ論争・対立が全面化し、その影響もあり
共産党と、社会党・総評は原水禁運動や労働運動で対立が激しくなっていた)

・党の方針に異を唱えた12人の党員文化人による決起
「文化人12人の要請にもある通り、党は正常な姿勢をゆがめて、労働者、勤労者の実生活からはなれ、人民から孤立化しつつあります。この危険から党と統一戦線を守り、労働組合の統一をまもる一つの道は、この際、組合内共産党員が率先して自己批判を行うことにあると信じます。また、この道を通ってこそ、党と組合との関係はいかにあるべきかの新しい道も開けてくるでしょう。党と組合の関係は、それ自身のもつ法則性の上にたちながらも、生きた媒介としての人間関係、すなわち組合員である党員たちの、人間活動を通じて具体的にうちたてられるものであります」。
12人の文化人とは、渡部義通を中心に出隆(哲学)、国分一太郎(文学)、佐多稲子(文学)、野間宏(文学)、佐藤忠良(彫刻)、丸木位里(画家)、丸木俊(画家)、山田勝次郎(経済学)、宮島義勇(映画)、浅倉摂(舞踊)、本郷新(彫刻)であった。



 一読してケッタイな文書だと思った。12人の声明も其の名前も見たことはある。然しそれは原水禁問題での党見解の批判であって、4・17スト破り問題ではない。たとえ声明の文言に其れが含まれていたとしても、それはコジツケだろうと思った。で少し潜ってみたら、上記のアンサーが樋口篤三の引き写しだと判明した。長いので引用しないが、きわめて意図的なコジツケである。つまり文化人12人の声明のナマの文言は何処にも出てこないのである。

 マアそれは置こうか。私はこの12人のうち、少なくとも出隆、佐藤忠良、山田勝次郎、浅倉摂、本郷新が党を除名になったという記事を赤旗で読んだ記憶がないのだ。然し旧い記憶だから間違いがあるかも知れない。一応の問題提起に留める。

 以下は上記とは直接の関係はないが、私の出隆に対する捉え方を示す記事として再録する。私的にはそもそも彼はマルクス主義者ではない。だから除名などしようがないのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    再録(抄)


   古本屋通信    No 2365   2017年  01月06日


     出隆(いでたかし)船山(舩山)信一 について

 直前板の訳者の出隆と藤川覚の文の手打ち入力は、ギクシャクした日本語も含めて楽しかった。かなり長い作業だったが、苦痛はなかった。それはそれで終わりなのだが、エントリーを仕上げた後、何か心残りがあるのだ。というのは あの仕上げだと、私自身が訳者の出隆と藤川覚、さらにフォイエルバッハの翻訳者である船山(舩山)信一をどう捉えているのかは不明だ。 私は藤川は殆んど知らないし、さほど影響力はないから気にならない。しかし出隆と船山については、一言書いて置かないと欲求不満が残る。と言っても彼らの一部始終ではない。彼らの思想は、戦後に限って如何なる思想だったのか、果たしてマルクス主義唯物論と言えるものだったのか。それと、彼らの政治党派との関係はどうだったのか。私は特に詳しいわけではないが、知っている事を少しだけ書いておきたい。尚、白紙から稿を起こすのは苦痛なので、ウィキペディアの一部分をつまみ引用して、それにケチを付ける形で書きたい。

 出 隆  1892年~1980年

第六高等学校を経て東京帝国大学卒業。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝大助教授。1935年教授。1948年(昭和23年)、日本共産党に入党。1951年には東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選。1964年(昭和39年)日本共産党を除名される。アリストテレスの研究。主著は『ギリシヤの哲学と政治』、『アリストテレス哲学入門』、『英国の曲線』、『詩人哲学者』、『アリストテレス全集』(監。訳)。『出隆著作集』全8巻。


 古本屋通信

  これでもウィキのごく一部だが、彼の著作上の仕事の殆んどは大昔の哲学青年向けの教養書とギリシア哲学なのだ。つまりマルクス主義者としての仕事ではない。それじゃあ戦後に入党してからめぼしい仕事はあったのか。直前板の翻訳はその一例だろう。しかし実践運動を別にすると、著作活動は啓蒙書を含めて少なかった。これは『出隆著作集』全8巻を見れば明らかだ。入党そのものも戦前の反省に立った自己批判から出発したとは言い切れない曖昧なものであった。普通なら戦前の著作は絶版にするだろう。東京都知事選挙出馬は党の50年分裂時代に一方から担がれた不正常なものだった。1964年の除名は多分「日本のこえ」に同調してのものだったろうが、殆んど話題にもならなかった。結論だけ言うと、私は出隆をマルクス主義者と捉えたことはない。リベラルな教養主義者だと思う。それでも党の哲学者に混じってミーチン歓迎会に出席したりした、そういう時代の、まあ遅れてきた三木清のような人ではなかったか。もちろんこれに対する異論もあろうが、いずれにしても過去の人である。

1 出隆著作集 別巻1 ギリシャ人の霊魂観と人間学 出 隆/[著] 勁草書房 1980
2 出隆著作集 第5巻 哲学史余話 出 隆/[著] 勁草書房 1974
3 出隆著作集 第1巻 哲学以前 出 隆/[著] 勁草書房 1980
4 出隆著作集 第2巻 哲学を殺すもの 出 隆/[著] 勁草書房 1974
5 出隆著作集 第3巻 エッセー 出 隆/[著] 勁草書房 1974
6 出隆著作集 第4巻 パンセ 出 隆/[著] 勁草書房 1974
7 出隆著作集 第6巻 哲学青年の手記 出 隆/[著] 勁草書房 1974
8 出隆著作集 第7巻 出隆自伝 出 隆/[著] 勁草書房 1973
9 出隆著作集 第8巻 出隆自伝 続 出 隆/[著] 勁草書房 1973
  1. 2018/11/18(日) 00:29:42|
  2. 未分類

カタールって、武装勢力と仲良し?

古本屋通信   No 3653    2018年  11月17日


  カタールって、武装勢力と仲良しでは?


 
15. 被差別者の秦野真弓
2018年11月16日 21:59
古本屋通信様の言われますように、
今回の安田純平様、救出劇には、様々な疑問点ございます
ただ、現に、カタール航空、搭乗英機し、
ヨーロッパ行った者としては
カタールとは、超親日国であり
命かけてでも、日本人、守る国
♪君を失うくらいなら♪どんな自由もこの命もいらない
って国です。カタール万歳
まず、安田純平様救出の為
超親日国=カタールは、1億円~5億円、ふざけた武装勢力に、支払っても、何の不思議もありません
ところで、次回の私のフランス旅行=物見遊山で行ってるつもりは毛頭ございません
。パリ駅の信号扱所
第二種継電連動なのか?電子連動なのか?
私に答えなさい。私、その答え、熟知しております
ところで、私のパスポート、あまりに汚れ過ぎ、無効と判明いたしました
1:JAL便の、申し込みの為には、旅券番号、打ち込むことが必要な為、解約しましたが
2:大阪→←パリ、中国東方航空ならば
旅券番号、打ち込む必要性ないばかりでなく、御値段なら、往復6万円の為
中国東方航空に乗変しました
従って、フランス帰りに、京都オフ会参加できます。京都オフ会、参加の可否についでは、慎重に判断させていただきます
まもなく、汚れの為、無効になった、従来パスポートに替わり
新パスポート、支給されます
新パスポートの旅券番号、まだわかりませんが→話は、それからだ。



  古本屋通信

 秦野様、毎度どうも。ところでカタールって、シリアの武装勢力に通じた国ではありませんでしたっけ? I S とも仲良し? まあどっちでも構いませんが、けっきょく日本政府はカタールに一時的に支払って貰った3億3700万円を、返却したんでしょうか? いくらカタールが親日国であっても金額が多過ぎると思いますヨ。もし支払っているとすれば、見方によれば、武装勢力とカタール政府と安田純平がグルになった人質詐欺だったという見方も成立します。いずれにせよ、赤旗を含む日本のジャーナリズムが唯一究明すべきは、日本政府の身代金支払いの事実があったか否かだと思います。日本のブルジョアジャーナリズムは、この一大論点を必死に回避し、安田に当初起った「自己責任論」に反論することに焦点を合せています。

 しかし「自己責任」なんて議論以前でしょう。企業や役所、それに政党であっても同じですが、自分の所属する団体の命令や指示によって海外に渡航したのではない安田の行動いっさいが、安田の「自己責任」であるのは議論の余地がありません。問題はそんな所にあるのではありません。安田救出に日本政府が国外の諸組織を通じて動いた、その結果、仲介組織を介してカタール政府が金を支払った、その3億以上の金を日本政府が返却しないで構わない、そういう国際的常識があるわけがないでしょう。

 これは安田自身がインタビューで終始回避している論点でもあります。日本政府は身代金は支払わないタテマエですから、終始沈黙もしくは否定です。こういう時こそ真実を追求する赤旗の出番なんですが、党は志位と小池それぞれの一度のツイッターでオワリです。安田を叩くことも出来ず、さりとて擁護すれば 99パーセントの国民を敵に回しますから、それも出来ず、ひたすら沈黙です。

 沈黙といえば、この問題はキンピーサイトでも論じられていませんね。最初にKM生様が問題提起されたのですが、誰も応じられませんでした。ひたすら徴用工問題ですね。私はコチラは逃げています。たぶん共産党も引くと思います。


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 ついでに日露交渉問題。以下がKM生様の見解ですが、現実の問題としては賛成です。ただKM生様は党見解を筋が通った見解と理解を示しておられるようですが、私は党見解は後から思い付いた小理屈だと思います。選挙目当てのブルジョア・ナショナリズムそのものでしょう。この点では私は宮本顕治よりも志賀義雄のほうが筋が通っていたと思います。ソ連が全面的に正しいデス。


3. KM生
2018年11月16日 19:37
1) 相手が日共であろうが安倍であろうが、ロシアは領土返還する気なんぞさらさらない(^^)。極東防衛上も、重要な拠点なんだし。彼らの論拠はポツダム宣言受入。ここで日本は「北海道・本州・四国・九州4島及びその周辺以外は放棄」条項を呑んで降服したんですから。むろん彼らの論理では、歯舞色丹全千島は北海道周辺に含まれない。さらにサンフランシスコ講和条約でも(むろん旧ソ連は加わっていなかったが)、米国との間で「北方領土放棄」を認めてるんですから。「今更何をぬかすか」というところでしょうな。

2) 日共は「第2次大戦の戦後処理は領土不拡大が原則。戦争や侵略や植民地化によって獲得した領土は放棄すべきだが、平和裏に獲得した領土は返還されるべき。よって歯舞色丹は暫定条約によって返還され、日露平和友好条約によって戦争状態を終結させて全千島返還されるべき」と主張。ある意味自民党政権よりも旗幟鮮明(その論拠を日共は、「歴代自民党政権はサ条約で領土放棄を認めた負目がある為曖昧な態度に終始せざるを得なかった」としている)だが、問題はその実現性。

3 )私は個人的には、戦後70年以上経っても返還の見込のない領土交渉続けるよりも、(名を捨てて実を取って)「平和友好条約締結してロシア極東開発に日本企業が進出する」のがよいと思います。

4. KM生@追伸
2018年11月16日 19:41
ロシアにとっても、日本の技術力は魅力。広大な天然資源の豊富なシベリアなのに、人口は希薄で森林開発は北鮮の(外貨稼ぎ目的の)出稼ぎ奴隷労働に頼っている状態なんですから。

6. KM生
2018年11月17日 01:29
結局のところは、既成事実を作ったもの勝ち。
沖縄が帰ってきたのも、日本語を話す住民がいて祖国復帰運動があったから。
竹島は韓国が事実上占拠している。最早手の打ちようがない。
北方領土もロシア住民がいる。今更日本に復帰させて追出すわけにも行かない。
せいぜい今の日本にできることは、沖縄に独立運動が起らぬよう住民なだめることと尖閣守ることだけ。


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 さらに続投がありましたので、私は未読ですが、とりあえず貼っておきます。


9. KM生@原点に返って
2018年11月17日 08:41
これまた原点に返って。
1) 1945年ヤルタ会談の時点で米ソは連合国で一体だった。トルーマンはスターリンに対日参戦を促した。しかしスターリンは、「ドイツ降服後でないと無理。主力部隊を極東に移動させるには3ヶ月かかる。5月降服として参戦は8月になる」と返事。同時に南樺太・全千島・北海道の半分を見返りに要求し、トルーマンはこれを了承。

2) しかし7月に米国は原爆実験成功。トルーマンは、「これを日本に使用して一気に敗戦に追込み、対日終戦処理で(近く参戦する)ソ連を出抜く」策に出る。

3) 一方で連合国(事実上米ソ)は、日本に「4島及び周辺以外の領土放棄(=周辺の解釈権はむろん連合国側にある)」を条件にしたポツダム宣言受諾を日本に迫る。

4) 広島長崎に原爆投下される一方で、ソ連もソ満国境を突破して対日参戦開始。日本はポツダム宣言受諾し、無条件降伏。ソ連はさらに9月には南樺太・千島にも侵攻したが、この時点で米国の日本占領は確定しており、北海道には侵攻できず。(続)

10. KM生@原点に返って(続)
2018年11月17日 09:03
(承前)
5) 戦後はアジア東欧で社会主義国が次々と誕生し、米ソの対立も顕著化して世界は2分された。むろん日本は米国にとっての「極東における反共の砦」となった。

6) 占領からの独立も、西側諸国との単独講和となった。しかし米国にとって、世界戦略上日本は「極東における反共の砦」でありさえすればよいのであり、北方領土返還などどうでもよかった。(ヤルタ・ポツダム会談の経過もあり)日本に対しては「終戦後ソ連が占領している北方領土」に関しては、サンフランシスコ講和条約で放棄させた。

7) 以上が経過でありますし、私はロシアが「(終戦間際に多大な犠牲を払って獲得した)現在占領している島々を日本に返還する気」なんぞさらさらないと思っています。日露交渉で返還カードをちらつかせるのは、「経済協力を如何に取付けるか」の外交交渉術の一環に過ぎない。

8) (北鮮に対しても何時までも国交がない状態はよくないのと同様)日露が戦後70年以上を経て戦争状態のままなのもよくないこと。先の投稿でも言ったように、(ロシアの底意を読取って)「お互いの顔を立てて共に利益になるような方向で解決を図る」のがよいでせう。 

11. KM生@夢想
2018年11月17日 09:20
歴史にレバタラは禁物とはいえ、もし仮に1945年9月ソ連が北海道に侵攻してきたなら、果して網走の宮顕は「自主独立の立場からこれを迎え撃ったか」或いは「プロレタリア国際主義の立場からこれに加わったか」果してどっちだったんだろうね(^^)?

12. KM生@夢想(追伸)
2018年11月17日 09:30
そういえば宮顕は、小幡小畑殺害後に逮捕されたとき拳銃拐帯していて、起訴状の罪状に「銃刀法違反」も言われていたなー。76年(奇しくも麻生氏がモントリオール五輪射撃に出場した年)には、野坂と共に「ライフル銃所持」が問題視されたこともあったしねー。たすか「趣味としての射撃は問題ない」と、当時のクレー射撃協会会長を赤旗に登場させたのには笑えたねー。


13. KM生@夢想(さらに追伸)
2018年11月17日 10:49
この頃から、あかはたまつりの会場に「レーザービーム銃」が登場するようになった。クレー射撃協会会長もまつり会場を訪れて、赤旗の徹底ぶりには笑えたねー(^^)。


14. 太宰ファン@KM生さま
2018年11月17日 13:58
>ソ連が北海道に侵攻してきたなら、果して網走の宮顕は「自主独立の立場からこれを迎え撃ったか」或いは「プロレタリア国際主義の立場からこれに加わったか」

のちにコミンフォルム批判を受けいれた宮顕だから、万々歳で受け入れ傀儡政権のメンバーになっていたのでは。占領され北日本に政権作られてたら酷いことになってたやろ。モンゴル共和国、戦前に共産党が政権取ったけど、ソ連の衛星国にされ、モンゴル共産党メンバー、ほとんどソ連に連行され処刑。70万の人口のうち2万が処刑。処刑の理由は満州の日帝の手先・田中のスパイになったから。全員が同じような自白にサイン。戦後もほとんど属国で鎖国状態。もちろん、田中など実在しない。モンゴルで田中は有名人。モンゴル学者・田中克彦氏は戦後訪問して驚愕したそうな(「ノモンハン戦争」田中克彦著)。



 古本屋通信
>ソ連が北海道に侵攻してきたなら、果して網走の宮顕は「自主独立の立場からこれを迎え撃ったか」或いは「プロレタリア国際主義の立場からこれに加わったか」

 「歴史にレバタラは禁物とはいえ」 は、英語でいう仮定法過去、つまり現実に反する仮定ですから、オアソビの話ですね。其れとして言えば、太宰ファン様のおっしゃるように、後者でしょうね。つまりプロレタリア国際主義の立場からソ連邦を断固支持したでしょう。

 展開は、ソ連の侵攻から日本がそのまま属国になるという単純なものではなく、ソ連と日本(政府)の単独講和条約の締結となります。その条約下で日本は新しい出発をします。そして総選挙ですね。ソ連支持の日本共産党は衆参選挙で圧倒的勝利をおさめ、民主連合政府が樹立されるでしょう。なんのことはない、1970年代の遅くない時期に作ると言っていた民主連合政府樹立の時期が1946年に早まっただけです。この政府は反米反独占の政府ではなく、親ソ反独占の政府です。アッ、日本国憲法は今の憲法と余りかわらないでしょうね。この新しい政府をどう革命政府に発展させるか、そこは党の力量次第ですが、たぶん300万の日本共産党が国会議席の三分の一でもって達成されているでしょう。太宰ファン様の予測はことごとく外れるでしょう。

 ひとことだけ戦後史の事実に沿って言うならば、戦後1962、3年ごろまで日ソ両共産党は、一時期を除いて圧倒的に兄弟の関係にありました。日本の党の第7回大会にはミーチンが出席して党の統一の回復を祝福しています。ミーチンは日本共産党員哲学者の多くに祝福され、党のプロレタリア国際主義が確認されています。あのね、モンゴルの歴史そのものが歪められていますが、日本の党がソ連に屈服するという予想は何の根拠もありませんよ。自主独立は戦後史の流れでもありました。ユーゴ、イタリア、スペイン、アルバニア、ベトナム、キューバ、チェコ。一寸遅れてフランス、東欧各国。何処を取ってもソ連盲従ではありませんでしたよ。結局モンゴルだけでしょ、ソ連の衛星国と言われたのは。


15. KM生@結論的に
2018年11月17日 15:09
以上北方領土にせよ、竹島にせよ、敗戦国の悲哀で今更取戻せる訳がない。本気で取戻そうとするなら、それこそフォークランド紛争のサッチャー並に自衛隊派遣するくらいの覚悟が必要。むしろ外交カードとして、表向きは(日本国民を宥める為に)領土交渉としながらも、本音では相手に譲る代りに日本は利益を売るというのがよいでせう。竹島なら、韓国に譲る代りに南北融和に楔を打って韓国の反日ムードに水を差す。北方領土ならロシアに譲る代りに、日本は経済的利益を得るというふうに。日露が戦争状態を終結すること自体は、極東の政治状況にも大きな影響を与えるし、(トランプのアメリカファーストで何時までも米国頼みでなくなる時代には)日本にとっても損には成らない筈です。


 以上で正常な投稿オワリ。以下、何を投稿してもよいとは云え、レベルが急落下。志位ツイッターなんか、今更引用するまでもなく、当初からの議論の前提になっているでしょう。名無し様はマトモですが、名無しは低脳。


16. 名無し
2018年11月17日 21:04
志位和夫 ツイッター
https://twitter.com/shiikazuo/status/1062967434917765120
>(会見で日露領土交渉について問われ)「2島先行返還」はありうることだが、
>その場合は中間的な友好条約で処理し、平和条約は領土問題の最終解決の段階で締結すべきだ。
>「2島で平和条約」は絶対やってはならない。
>戦後処理の不公正にメスを入れ、全千島列島返還を内容とする平和条約を締結すべきだ。

「全千島列島返還」!
キャー!ステキー!
真知宇くんの様な右翼
http://edajima53.web.fc2.com/
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12166367307
よりも過激で愛国的なステキな主張ですね!(笑)
南樺太返還も宜しくおながいします(笑)
  1. 2018/11/17(土) 01:56:01|
  2. 未分類

森古書店の思い出

古本屋通信   No 3652    2018年  11月16日


    森古書店の思い出


  数年前に神奈川県から岡山市に移り住んで奉還町で古本屋を開店された一刻堂書店さんが、「伝説の古書店店主森さん」 と書かれている。それで私は、記憶にある森書店のことを少し書くことにする。と云っても、私は古本屋の良い客ではなかった。森書店との付き合いは(期間こそ20年の長きに及ぶが)たぶん買った古本は数万円にも満たない。私に較べると、K先生なんかは十倍の付き合いである。他にも森書店のファンだった人は何人もいるが、閉店して22、3年になる現在、語れる人は多くない。書き残す人はいないだろう。そう思ったので、いくぶん重いが書くことにした。断るまでもないが、私の文は森書店礼讃文ではない。主観的な文となる。

 私が四国・高松から岡山に戻って来たのは 1968年春である。1970年春までの2年間、私は岡大の学生だった。その期間にも何度か森書店に通っているはずだが、確かな記憶はない。私は1970年春、F書店に就職した。当時のF書店は南方の長泉寺の隣にあったので、森書店に立ち寄る機会はなかった。2年後に書店は番町の城北女子高跡地に移った。私は以後13年間、番町から自転車で下伊福西町の自宅に帰った。帰路は国道180号線だったが、毎週一回脇道を通って本屋に行った。主な本屋は新刊屋の紀伊国屋書店と平和書房だったが、その帰り途に古本屋があった。それが岡山駅前の川下書房と、岡山駅西口奉還町通りの森書店だった(川下書房とは、古本屋の客としてではなく出版社の営業員として、また古本屋の先輩・後輩として長期に付き合うが、それはいずれ別の機会に書く)。

 森書店(以下、男店主の時代と女店主の時代があり、面倒なのでオジサン、オバサンさんと呼ぶ)がいつ開店したか私は知らないのだが、多分戦後まもなくだろう。確かなことはこの古書店が閉店まで一度も古書組合の組合員でなかったことである。その関係もあってか川下書房とは仲がよくなかった。いや森書店は、岡山の古本屋の中では孤高の店だったと思う。

 私は立ち読み専門の悪い客だった。森書店は当時客は多かった。商店街の小さな借り店舗は2軒から3軒になった。オバサンの主要な仕事は顧客管理であった。万引きの防止と、小中学生の追い払いである。「ボク、Hな本を見られな。学校の先生に言い付けるよ」。これだけがオジサンのいる時代のオバサンの仕事だった。それと、この夫婦は客の前でよく喧嘩をした。商店の夫婦喧嘩は客を追い払うためと云われるが、私にはそうは見えなかった。

 オジサンは余分なことは喋らなかった。オバサンはお喋りだった。そしてよく自慢話をした。それを紹介しておこう。「うちは岡山で一番大きな古本屋じゃ。大阪や京都から汽車に乗って大勢のお客さんが来る。駅から離れているけど、関西のお客さんでウチを知らない人はいないよ、いたらモグリじゃ」。それから十数年後に万歩書店が開店して、売り場面積トップの座を奪われた時の悔しそうな言い分が 「でもあの店は日本人じゃあないじゃろう。あっちの人じゃろう」。オバサンには民族差別という日本語は最初からない。

 少し時代が下るが、オジサンが亡くなる前に客からオバサンは在庫を訊ねられたことがあった。「オバサン、店に並べている本以外にもたくさんあるんじゃろう。一体どれくらい在庫があるんで?」「ああ、あるよ。裏の倉庫に1万冊は隠しとる。換金したら億の金になるじゃろう」。その20年後に森書店は閉店するが、そのとき組合理事のMさんが頼まれて在庫を見に行った。Mさんは引き取りを辞退したという。ゼロではなかったが、評価額が低くて言い出せなかったそうだ。結局最終的には、倉敷のNさんとYさんが20万円で引き取ったと聞いている。別に最悪だったわけではない。古本屋の売れ残り在庫の評価はこんなものだ。

 森書店には岡山の古書通の多くが集まっていたが、その全容は私ではなくK先生が詳しい。でも大学教授や高校教師の名前なら私でも20人は挙げられる。故人だから実名を挙げようか。私が高校模試の編集をしていた時代、高校教師に問題審査を依頼して会議をやっていた。その国語科のメンバーに操山高校の難波先生と、大安寺高校の幾田尚先生と、朝日高校の国定忠治先生がいた。うち難波先生と幾田先生は毎週、森書店の椅子に坐って時を過ごした。オジサンはいやな顔をするどころか、先生を番頭に使った。つまり古本のコンサルティングである。両先生は広島高師出身だった。

 オバサンは論外として、オジサンは古本を知っていたか否か。商売上の十分な知識はあった。だがそれは本の内容を知っているという意味ではない。オジサンもオバサンも、たぶん上級学校に行っていない。いや岡山に学卒の古本屋など最近までいなかった。

 何時の時だったか忘れたが、あるときオバサンがこんな事を口走った。「関西の悪い業者にだまされた。良い本を一杯盗まれた。いや買いたたかれた」。要は同業者の背取りだった。関西の誰だったか。私の見立てでは梁山泊の島元さんだ。岡山の同業から大量に抜けるのは島元さんしかない。私が森書店だったら感謝する。たくさん抜いてくれてアリガトウと。それに勉強にもなる。このときのだまされたという感想はオバサンだけの感想ではなく、オジサンも共有していたのかも知れない。ならば古本屋としては失格だろう。つまり非組合員古本屋の世間知らずである。

 オバサンは商売には余り口を挟まなかったが、それでもオジサンが買出しに出掛けた時には店番をしていた。こんな時オバサンでは店頭買いは出来なかったのである。これも古本屋失格である。

 またオバサンは店で古本を売るさい、良い本を安く売るのが悔しくて堪らないように見えた。そして口癖が 「この本はカミでは、こんな値では買えんよ。目録ではすごい高値じゃ」。カミは京都・大阪ではなく、東京神田だったろう。見ると、神田一誠堂書店の目録があった。古本屋の客はみんな一誠堂の付け値など熟知している。馬鹿にされるだけである。

 古本屋に限らず古物商の実力は仕入れで試される。良い仕入れがストップすると、その日から売り上げは落ちる。自分を顧て恥かしいが断言できる。当時の森書店の仕入れの全容は伺い知れないが、かなり多くの 「拾い屋」 が出入りしていたことは確かである。「拾い屋」 と云っても様々なレベルがあって、文字通りの浮浪者・ルンペンもいれば、目利きの回収業者に近い者もいる。何を隠そう、私自身も古本屋を開店して約十年間 「拾い屋」に近い収集をやった。これは実に愉しい仕事だったが、資源化ゴミが持ち去り禁止になったのと、一般ゴミの袋が透明から黄色に変わったので、実質不可能になった。岡山市から 「拾い屋」 は消えた。

 森書店に出入りする 「拾い屋」 には呑んだくれはいたが、恐喝紛いはいなかった。オジサンは彼らに丁寧に対応した。持ち込み客を社会的地位や風采で評価せず持ち込む本で評価した。そして時にゴミ同様の本を持ち込んでも、買わないのではなく、安く買い取ってあとに繋いだ。しかしオバサンはトコトン 「拾い屋」 を嫌った。のみならず彼らを差別しないオジサンに不平を言った。

 つまりオバサンは 「拾い屋」 が汚いから、彼らが持ち込む本も汚れているとしたのだ。汚い人間に金を払いたくなかったのだ。だが、のことは 「拾い屋」 対応に留まらなかった。オバサンはオジサンが死んで店を自分ひとりでやるようになった日から、いっさいの買い入れをストップした。私はそう見ている。「ウチにはまだ在庫が一杯ある。それを売り切ってしまわないうちに仕入れをするのはお金の無駄だ」 と。

 オジサンが死んだその日から、森書店の顧客は持ち込み客だけでなく、買い客も一斉に蜘蛛の子が散るように引いていった。それでもオバサンは閉店まで数年持ち堪えた。何も他にすることがなかったからである。毎日売り上げゼロの日が続いた。オバサンが店を閉める日に、私は同業者として挨拶に行った。残った在庫の話は双方から出なかった。オバサンは寂しそうに私に言った 「あんたはまだ若いんじゃから、私の分まで頑張られえよ」。ありがとう。

 これが女子の古本屋の最後・最期である。以上、主に森書店のオバサンについて書いたが、ほぼ同様な経緯で閉店したのが、主人を喪って後を継いだ岡山大学内の北書院の女主人・小島さんであった。

 女子の古本屋はなぜ潰れるか。それは金をケチッて、仕入れをしないからだ。それに尽きる。古本屋は女子に不向きな商売である。

 倉敷の蟲文庫さんが頑張っているのは心強いが、彼女たちを称えて「女子の古本屋」註なる本を刊行したのはゲスである。売文商売とは云え何を書いてもよい訳ではない。これもフリージャーナリストの貧困商売であった。シリアに出掛けなかっただけマトモだが、売文稼業の犯罪では同じである。読んでいて恥かしくなる。岡崎武志のようなのを詐欺売文屋という。古本屋の真実とは凡そ掛け離れた所で耳障りのよい御託を並べて一丁上がり、それが古本ライターである。


女子の古本屋 (ちくま文庫)
2011/6/10  岡崎武志


5つ星のうち1.0
タイトルはなんなの?2015年11月24日
かたよった買い方、古書のことを本当は、よく知らない著者が1冊でもよけいに本をだそうとして、正面からむかわずにからめてから入ってお茶をにごしたあざとい本。取材しやすいところをまわって仕上げたためか、行ってないのは変ではないかというところがもれている。タイトルが女子はないだろう。「古本屋の女房」というエッセイがあったが、中身がにおってくるようだ。雑誌の特集記事のようだ。

5つ星のうち1.0
著者は古本屋のことを何も知らない。2012年7月2日
古本屋を経営しています。
この本を読んで正直呆れたというか絶句に近い感想を持ちました。
こう言う本を出版するからにはそれなりの世界に足を踏み入れないと簡単に出版できるものではありませんししてもいいものでしょうか。
著者もここに紹介されている女性達もたかが古本屋に一、二年お手伝いみたいな感じで入っただけで何を分かったような物の聞き方をしていて怒りすら覚えました。
そんな甘い世界なら日本中に若い女性店主の古本屋が乱立されるでしょうね。
散々登場女性を持ち上げるだけ持ち上げといてこの著者は何がしたかったのでしょうか??
古物商許可証とか知ってるんでしょうかね。 何も知らない女性が取り締まられたら著者にも半分責任があると思いますが。
  1. 2018/11/16(金) 03:39:40|
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我慢がならぬ『岸本正義写真集』

古本屋通信   No 3651    2018年  11月15日


  『庶民のまち 私のまち 岸本正義写真集』 は、ちょっと我慢がならぬ自費出版本

 ここに一冊の写真集がある。被写体の奉還町は、私の店から徒歩5分の距離にある。岡山駅西口から西に流れている、戦後間もなくから(町名は大政奉還に由来する明治初期からのものだが、今の商店街は戦後だろう)の旧い商店街である。本を出したのは、奉還町に隣接する駅元町で開業医をする岸本正義先生。刊行年は平成2年だが、撮影期間は1980年代に撮った写真をまとめたと書いてある。

 私はこの写真集を先日回収業者のYさんから、他の写真集と一緒に計4冊2000円で買った。4冊とも町内会の廃品回収から出たものである。自費出版の写真集であり、お医者さんの本である。他の3冊の説明は省略するが良く出来ている。すべてB5版・200頁前後の豪華な造本だから、刊行経費だけで200万円は下るまい。岸本さんの本だけは定価 5500円と打っているが、もともと売る積もりで造ってないので、回収金はゼロであろう。誰が自分の金で豪華本を造ろうが勝手だが、経済的にゆとりのある者しか出来ない自費出版である。

 4冊の本の印刷・製本はすべて中野コロタイプとなっている。しかし製本は製本にも責任を持つという意味であって、実際にはたぶん日宝製本所を使っている。印刷だが、ここで云う印刷は編集のいっさいを含んでいる。中野コロタイプの編集技術は第一級であって、まさに出版会社を兼務しているのである。

 さて 『庶民のまち 私のまち 岸本正義写真集・岡山の下町・奉還町界隈』(これが正式な書名)に入るが、この写真集が私の古本屋に入るのは初めてではない。5回目くらいである。どう処理したか正確には記憶していないが、たぶんすべて潰している。一度は使える写真だけを切り取ってアルバムに保存した覚えがある。あとは一定期間店に置いたのちに処分している。見れば見るほど腹が立って耐えられなくなったからだ。ならば、そんな写真集をなぜ業者から買ったのかと問わるだろう。でも3年も経てば、もう一度見直して見ようかという気になるのだ。それが郷土本である。

まず表紙の造本(装丁・レイアウト)である。表裏とも白表紙である。こんな造本は見たことない。中野コロタイプが白表紙の本を勧めたことは有り得ない。著者が頑強に主張したのであろう。他の3冊はそれぞれ一番優れた写真をカラーで使った一級品のレイアウトである。

次に題字である。素人がしばしば思いつくのは、自分の肉筆文字を拡大して表題に充てることだ。だがこんな下品な造本はない。それをやっている。しかも墨ではなく朱色を使っている。表紙の朱色などタブー中のタブーである。なぜなら光に当った表紙は数年も経過すれば禿げるからだ。しかもこの手書き文字を、裏表紙にも反転させて使っている。本人はユニークだと思っているのだろう。だが表紙の造本に奇を衒うのは愚の骨頂である。シオリーどうり活字の明朝体を使って(ゴシック体もよくない)、余分な文字を入れず、「写真集 庶民のまち 私のまち 岸本正義」 とすべきである。表紙は表はベストな写真を、裏は表のカラーの基調を三分の一使って、あとは白のママ残すべきであろう。現に他の3冊はそうなっている。これは著者が中野コロタイプの装丁者に従った造本である。装丁だってプロに頼めば10万円は懸かる。素直に従うべきであろう。

本の中身だが、表紙を開いて最初に遊びの一枚があるのは良いとして、次が本扉の頁である。ここが墨ベタ白ヌキ活字というのも見たこと無い。これだと本文の案内ではなく、拒否になる。重いこと重いこと、プロはこういう頁割りはまずしないだろう。ここからがまた到底許されない頁割りである。なんと豪華写真集の冒頭に、写真ではなく文字がフルに入った頁が(目次を除いて) 10頁もあるのである。推薦者の前講釈は1頁で十分である。二人必要でも1頁である。本人の講釈はいっさい要らない。書くとすれば、巻末に後記の1頁のみである。それが巻末にも8頁ある。しかも活字の大きさも、段組みも異なる3種類で、レイアウトも無茶苦茶である。

最初と最後の計18頁の文章だが、推薦者2名の日本語はまだ許せるが、岸本先生の日本語は到底読めない。なにも医者が上手な文章を書く必要は無い。他人に直して貰えば良いのだ。私だったら1万円くれれば1時間で直して差し上げる。つまり編集者の介入を許さず、自分を通した唯我独尊である。医術ではないのだから謙虚でなければならない。

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大半を占める本文の写真については、私は全くの素人だから技術的諸問題については遠慮しておく。ただこの写真集の写真が被写体になった人びとにどう受け入れられたか、また拒否されたか、それだけを耳にした限り、書き留めておきたい。

 何百部印刷したか、300部であろうと500部であろうと刊行経費は殆ど変わらない。おそらく残部を100部残して全て献本している。現に私が入手した岸本写真集には全て献呈署名と献呈先が毛筆で入っている。献呈先は知人と医者仲間だろう。それだけで止めとけば良かったのだ。ところが自己顕示欲というのは恐ろしいものである。私が聞いたのは数人の奉還町の住人からだが、被写体になった商店街の全戸に漏れなく無料配布したのである。完全に全戸だったか否かはわからないが、配るからには平等に配った筈である。つまりせっかく良い写真集を造ったのだから、地元の人々に返してあげたいと思ったのである。私はこれ自体は良いことだと思う。

 だが結果はそうならなかった。感謝した人と、迷惑がった人と、肖像権の侵害だと怒り狂った人の割合は正確には判らない。だが感謝した人が殆どいなかったのは事実である。たぶん森古書店の女主人だけだったのではないか。

 私は肖像権は(この写真集に定価を打ったのが拙かったことを除けば)無いと思う。商店街の如何なる風物を写真に撮って写真集を出版しても表現・出版の自由である。その風物の中に道行く人や商店主の写真が混じっていても一向に構わない。

 だが、写された商店街の人びとはそうは思わなかった。そう思わないのも自由である。でも、そう思わないだろうということは予め予想出来たはずである。だったら配るべきではなかった。だが無料で配ればありがたがられると思ったのである。そこに医者の傲慢とまでは言わないが、錯誤があった。

 出版でも古本でも新刊本でも一緒だが、それらに興味がない人びとにとって、それらは完全にゴミなのだ。私は古本屋が地域文化に役立つなどの幻想とは最初から無縁だったが、それでも近接の女子大からは少しは感謝されるかとは思った。そういう事実は皆無であった。岸本さんが地元奉還町の商店街を「庶民のまち 私のまち」 と称えたことは、奉還町の住人にとって何の利益ももたらさなかったのである。

 なお写真の内容には触れないが、奉還町が庶民の街だった時期はせいぜい戦後の20年間である。岸本さんの写真の奉還町は、庶民の近寄らない廃墟の街であったし、今もそうある。ことさら街をけなすつもりはない。奉還町の隣の伊福町で古本屋を始めて25年、この街ほどガメツイ街はない。連れ合いは定年退職する直前の10年間、ここ奉還町を学区にもつ小学校に勤務していた。まあこんなもんだろう。

 最後に同業者のネット記事の一部を貼っておく。やはり森古書店さんと同じ女の古本屋だなあ、というのが感想である。


『庶民のまち 私のまち』 岸本正義写真集ー岡山の下町・奉還町界隈
 一刻堂通信  2014年3月31日月曜日
  古くからお住まいの方から頂きました。撮影年月日が入っていないのが残念です。発行は、平成2年9月。 
 あとがきや内容から昭和の60年代~平成初期あたりの写真であることがうかがえます。
 伝説の古書店店主森さん、今もある石材屋さん、とりいくぐるのもとの姿も見えます。昔の奉還町商店街を懐かしんで訪ねてくださるお客様たちのために、当分(かなりずっと)非売品として店内に置きます。
 みなさんで往年の奉還町を偲んでください。
 
  1. 2018/11/15(木) 03:31:32|
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#安田純平 人間のくず

古本屋通信   No 3650    2018年  11月14日


   #安田純平 人間のくず


 本来処刑されるしか無かった似非ジャーナリストに3億3700万円くれてやって、それを遂に合理化しきったブルメディアは本当に糞だった。下が正解だろう。私も散々振り回されたが、結局は負けたということだ。関係エントリーの総てを消した。しかしブルメディアは手強いのう。



#安田純平
落ち着いてきたところで、やはり、業界人と言われる人達は擁護に余念がない。うーん、やはり彼を批判すると「お前、行ってもないのに批判できるのか!」と業界から弾かれるからだろう。
こうして、能力も無いくせに「目立つ」事でジャーナリストであろうとする小物ばかりが増える。


#安田純平
チマチマ、インタビューに応じている様だが、「インタビュー」という時点で、仲間を選んでるよね。
例えばニコ動で、リアルタイムに質問に答えるとかしないと、世間のいう「ネトウヨ」は収まらないでしょ。
て言うか、ジャーナリストが、ジャーナリストに応えたって意味ねーだろ。




  古本屋通信

 最後に一言だけ言う。ジャーナリズムが真のジャーナリズムであろうとするなら、唯一追及すべきは日本政府の金の支払いの有無だろう。だが全く追及していない。その時点でジャーナリズムはオワッテいる。
  1. 2018/11/14(水) 17:46:57|
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